「ポルトアレグレの精神」の陣営も、同じように分裂している。その一つの理由は、移行期の戦術の中に、自分たちの構築したい世界のイメージを取り入れており、その運動はしばしば「水平主義」と呼ばれている。実際にそれは、単なる背景や直接的利害を持つ人々の間で議論を活発にして相対的合意を見つけようと努めており、運動と世界の機能的分権化の制度化を追求している。
この集団はまた、しばしば「文明の危機」と呼ばれる現実を強調してきた。ここで言う文明の危機の現実とは、実際には、経済成長を目標にするのを拒絶し、それに代わって社会的目標の合意的バランスを追求することーーーそれは相対的な民主主義と相対的な平等主義に確実に結実していくだろうーーーを意味している。
「ポルトアレグレの精神」のもう一つの集団は、政治権力の闘争にはある種の垂直的組織が必要上限であって、それがなければ失敗する他ない、と主張する。この集団は、収益の再分配の実現に必要な手段を確保するうえで重要なのは、現在の世界における低「開発」地域で経済成長をごく短期間の内に達成することだ、と強調する。
したがって、移行期の構図は、単純な二大陣営の闘争というよりも、むしろ四つの集団が闘う政治領域からなる。すべての人を巻き込むこのような混乱状態は知的、道徳的、政治的なものであり、結果の不確実性を強めていくことになる。
現存するシステムの短期的問題を激化させるこの種の不確実性は、冒険心を駆り立てるもの(行動によって差異が生まれてくるという感情)であると同時に、機能不全的なもの(短期的な結果は不確かなので動きがとれないという感覚)でもある。このことは、現存するシステムから利益を引き出す人びと(資本家)にも、膨大な下層階級の人びとにも当てはまる。
以上を要約すれば、私たちが生きている近代世界システムが存続できないのは、それが均衡からあまりにも遠ざかり過ぎていて、無際限の資本蓄積を資本家に許容することがもはやできなくなったからだということである。下層階級も、歴史は自分たちの側にあって子孫が必然的に世界を継承していくとはもう考えていない。つまり、私たちは、後に来るシステムをめぐって闘争が展開される構造的危機のなかに生きているのである。闘争の結果は予測できないが、来る数十年のうちにはいずれかの側が勝ち抜き、合理的に安定した新しい世界システム(または複数の世界システムの組み合わせ)が構築されるだろう、と確信することは可能である。私たちにできるのは、歴史的選択肢を分析して、望ましい結果をもたらすような道徳的選択をし、そこに至る最適な政治的戦術を評価することである。
歴史は誰の側にあるのでもない。何をすべきかについて判断を誤る可能性は誰にでもある。結果は偶発的であって本質的に予測できないものであり、私たちが望むタイプの世界システムを獲得するチャンスは五分五分であるが、それは決して少ない確率だというわけではない。
『構造的危機=なぜ資本家はもはや資本主義に報酬を見出せないのか?』
イマニュエル ウォーラステイン
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