日本の全盛期を支えた高度経済成長は終わりました。大量生産、大量消費という20世紀の原理は、もはや個人に幸せをもたらさず、21世紀のIT革命と金融主導のバーチャルなグローバル経済は、過剰な情報とともに、終わりのない競争を、私たちに強いるようになっています。
それでも、都市の人々はマネー資本主義を頭に植え付けられ、会社員という幻想的な身分にこだわったあげく、住宅ローンにしばられ、朝晩の通勤電車に疲労し、望まない競争に巻き込まれています。その果てにあるのは、ひとりが総勝ちして、あとはみんな負け、という殺伐とした世界のイメージですが、先行きの不幸を自覚していても、原始的な共同体社会にはもう戻れません。
一方で、自然と時間と人間関係が豊かなはずの地方では、高齢化と人口の急激な減少で生活基盤が崩壊する危機が、静かに進んでいます。2040年には、全国の市町村の実に半数が人口を維持できずに機能不全に陥るという、衝撃的な論考も発表されました。しかし、その瀬戸際にありながらも、閉鎖的な村社会の掟は、土地に住む人々をしばり、変化に対応した新しい取り組みはなかなか進みません。取り組んだとしても、アイデアや機動力の不足から、成果に結びつかない場合も数多く見受けられます。
物質的な豊かさが飽和した時代に、私たちは、そのように複雑に折り重なったジレンマを背負うことになりました。それらの問題、ひとつの明確な解を与えることは、むしろ不誠実な態度だといえるほど、現代社会は人が生きるのに難しい環境です。(中略)
中心にあるのは、すでに終わりを迎えている「経済成長」ではなく、「持続可能性」という、同時代をドライヴさせる「生きた)原理です。「失われた十年」と呼ばれた20世紀最後の十年は、拡大を続けてきた日本の消費社会が縮小へと転換する時代でした。それでも高度成長の幻影に引きずられていた私たちは、「失われた二十年」を過ごし、2011年3月11日の東日本大震災で、20世紀の仕組みや考え方がすでに通用しないことを思い知りました。
では、次に来るスタンダードとは何でしょうか。成長第一主義から脱し、環境に配慮した持続可能な生き方が、今後、ますます問われていくことはまちがいありません。そうした流れを敏感にキャッチした人たちが集まっているのが、葉山という場所なのです。
この本では、文化と生活意識の高い海辺の町で、その担い手となる人、場所、店を訪ね、それぞれの物語を聞きながら、次代の感性と生き方の可能性を探りました。取材をしながら発見したのは、一つひとつの小さな物語が、葉山以外の場所にも水脈のようにつながっていて、やがて大きな像を結んで行くことでした。そこから得たメッセージが、より広く、より多くの方々に届くように祈っています。
前世紀を引きずる競争社会で必死にがんばって、その先に何がある?
資本とか、権力とかに雇われず、自分の足で立つ。
お金をかけないで、おしゃれに暮らす。
個人を大事にしながら孤立せず、社会とも情報ともつながる。
価値観の転換は、可能なのです。
「住む場所を選べば、生き方が変わる』 清野 由美 より転載
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ステージ上の明菜ちゃんは、ユルフワのパーマネントをいきなりワンテールのポニーに結びなおして歌い出すんだね。
『じれったい、じれったい、結婚するとかしないとかなら
じれったい、じれったい、そんなのどうでも関係ないわー
特別じゃない どこにもいるわ ワ タ シ 少女A』
ご存知バブルの寵児ソバージュ明菜ちゃんはもう今年で51歳になったらしいのだが、20周年のコンサート時は37歳でまだなかなか元気だったのがyou tubeで見られるから、僕は毎月末のグラフの更新はそんなのを50本も連続して流している。「そんなのどうでも関係ないわー」という歌詞が(瑕疵が?)僕は好きなんだねよね、元清瀬の(東京都下の清瀬市 西武池袋線です)のヤンキーがアイドルになって「愛の難破船』で沈没しちゃってリストカットしたぐらいから時代が大きく曲がったような気がするんだね。
転載した清野さんの本は、東京女子大卒の感度の良いおしゃれなインテリライターが時代の変化を身体で感じてこういう風に生き方を変えて行くほうが良いだろうというひとりの宣言のようなもんじゃないのかと思う。前時代の廃れた怪物の石原慎太郎は「湘南」という地区の定義はトポロジーとして三浦から小田原の手前の二宮までとしていたようだが、アルツハイマーとボケが本格化して都合の悪い所だけが惚けるという醜い老人の象徴として日本一有名になったから、それから親父の時代が絶滅して女に時代に東京はなったというわけである。小池さんとは男より勇ましい女だから、じれったい、じれったい、結婚するとかしないとかならじれったい、じれったい、そんなのどうでも関係ないわーという世代の代表であると思う。
僕は台風が来るらしいというので、それなら港北のIKEAで買い物して、お昼は中華街で飲茶ランチが良いかしらということで、火曜日の愉しいデートということになった。友人夫妻と4人でもV8 AUDIはとても早いが、西湘バイパスでは僕を抜いて行った白いクラウンが2キロ先で黒い覆面クラウンに捕まっていたので、「用心、用心、スピード用心ですね、だって250キロぐらい20秒ぐらいですぐに出るからです」
マダムは花屋の仕入れでガラスベースを16個買って中野の店まで配送したらしい。僕はチョコやジュースやビールとか電球とか細かいものを1万ぐらい買いました。それにしても、萬珍楼の前菜盛り合わせは旨い。これで3800円は高価だとは思うが、他に変えがたい。日本一!!だねきっと。平日お昼に4人で2万円というランチは小金持ちの特権だろうが、引退したらそれぐらいの贅沢が出来ないなら働いた意味があまりないんじゃないのかねと思う。貧乏な人はひとり1620円の時間無制限の150種飲茶バイキングなんて店に入って毎度がっかりするのですよ。大阪でベトナムさんが入った店がそういう場所だったみたいでしょ。ちゃんと良い店で一番素敵なメニューを頼むのが一番お得で美味しいんだけど、貧乏性が直らないとソンをするんだねえ。それは社畜ばかりが増加してなんか実に切ない社会だけれど、例外的に愉しい人だって実はそれなりにはいるんですよ。
今日はコムデギャルソンオムの白い麻パンツとアビレックスのカーゴパンツ、それにローガンの18オンスのデニムを買った。昔から僕は古着屋が大好きだ。カッコイイものが多いからと選ぶ目の差がすぐに出るから。差異化というビジュアルの差が出やすい場面こそ、お金の値打ちが何倍、何十倍と差異化されると思うねえ。