「日本の庶民というのは金持ちの家に生まれてそのまま大した努力もせんで金持ちの人間より、努力してのし上がった人間をむしろ嫌う傾向がある。あの方は育ちが良いとか、、言う一方であいつは成り上がりだ、とか成金だとかと揶揄する。もちろん使えない金持ちをおぼっちゃんとバカにする言い方もあるが、どことなく敵意は薄くて、お嬢様なんて好意一辺倒だ。成金にはむしろ敵意を持つ。ところがその成り上がりも誰もが凄いというレベルになると急にまた好意を持つ。豊臣秀吉とか松下幸之助とかをバカにはしない。庶民が嫌うのは自分より下にいた人間が自分が羨ましいと思える程度に近く上に行った場合である。」
「日本で革命が起きないわけ」 ハルトモ氏のブログより無断転載
きっとハルトモさんは、成金だから世間の風当たりが強くてこういうテキストを書いたのだろうなあと思う。(笑)
僕にも同じような経験があって、同級生と久しぶりに会ったりすると車とか時計とか洋服とか靴とか見た目でそれとわかる高額品をわざわざ僕はイヤミに着ていく、つけて行くので白い眼で見られることが30代からずっと長かった。彼らがシビックに乗っている時にグリーンのジャガーの12気筒に乗って行く。彼らがSEIKOやカシオの時計をしている時にジャガールクルトかポルトギーゼをつけていく。単価で10倍、20倍、100倍という感じ。するとその種の話題を彼らは自然に避けるようになり、その結果彼らは僕を自然に避けるようになる。(爆)
「最初は何でだろう?」と不思議な気がしたが、それは彼らでは多分絶対に買えないし、仮に買っても使用できない環境で生きているからなのだと後になってわかった。東北大法学部首席卒の義理の兄は上級公務員試験を学生の時に受かるぐらいの秀才エリートで地方県庁に就職したが、がんじがらめの職制の中にいると好きなことは全部出来ない。家も車も洋服も職場の序列をはみ出しては買えないのだ。上司より良いものは買えないのである。金がないということも無いのだろうが(とは言っても安月給だが)そういう窮屈な世界が日本の農村社会から連綿とずっと続いている。江戸時代とほぼ変わらないのがリーマン社会の消費の構図なのである。
嫌だねえ!暗いねえ!せこいねえ!と僕は思うな。何か自分のやりたいことを元気に堂々とやって、出た結果を受け入れて、どんどんと欲望を実行していく個人主義というのが近代社会を作ってきたのじゃないかよ?
欲望する消費機械。ドゥルーズとガタリが書く「資本主義と分裂症」とはそういうルサンチマンではなかったか?今時、中世の封建制でもあるまいし、殿のための忠義なんてアホらしいと思わないのかしら?と不思議でならない。リーマン社会は幕藩体制の残り滓のようなものだから、未だに国営テレビの大河ドラマはサムライものばかりをやっている。だから革命なんて日本では絶対に起こらないのである。
農民は基本的に、隣の田んぼや畑を見て自分の田んぼや畑を耕す。同じ土壌で同じ気候風土だと同じことを同じ時間帯にするほうが失敗が少ないからだ。だから結果も同じようになる。それを「安全、安心」とか言って喜ぶ。でもみんなが同じことをすれば同じものが大量に出来て、値段は需給だから安くなる。結果、農民の
(リーマンの)月給は当然安くなるという当然の事が起きる。日本だけがデフレを20年以上続ける理由とは、経済政策の失敗もあるが、実は日本人の行動特性の同質化圧力が異常に高いせいだろうと僕は考えている。この傾向はすぐには変わらない。数世代徹底して差異化した新種が生まれないと変化しないDNAなのだろうと思う。
20世紀の最大の哲学思想=構造主義の元祖、クローズ ド レビーストロースはフィールドワークしたマトグロッソの非文字文化の狩猟民の生活を見て、家族10人程度が夫婦二人で1日2-3時間の労働で豊かに暮らしていたと書いている。
「現代の都市生活者が夫婦二人で1日たったの2時間で家族10人が裕福に暮らせるというような可能性があるんだろうか?」つまりアマゾンの奥地の原住民より生活レベルが高い都市生活者は先進国にもほとんど皆無という現実があるのだ。(みなさん不思議に無自覚なのだが、、)
こうした疑問が僕にはずっと学生時代からあった。「答えは都市でも田舎でも可能である。」
相場師になって成功することが唯一の答えだと論理的に感じたのである。
金儲けの方法は世の中でいくらでもあるが、1日2時間程度というのは他にはほとんどないと思う。