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Channel: 猫次郎のなんたらかんたら書き放題
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賭=人はなぜ相場をするのか?

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伊豆山の桜は満開です。
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花びらはピンクが強く可憐です。

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1615  月足  煮詰まって三角を形成して離れ待ち?
16週上げて8週押すというリズミカルなうねりで、今週は目先高値から9週目でどうやら陽転したみたいだが、、


 道徳とは、「生を否定しようとする意思」、大いなる破壊の本能、堕落、誹謗、中傷の原理、終末の始まりではないだろうか?従って、危険の中の危険、、、?     
 ニーチェ「語れ、そして破壊せよ」より

 二人のどちらにおいても、人間はまず、断片的な存在として定義される。(社会的、政治的、知的、等々の)あらゆる要素は、特殊な決定された目的へ向かっているしるしを成すものであり、その意味で道徳に従属している。ニーチェは、人間の究極的渇望、いかなる条件にも従属していない渇望、可能なるものの全的解放を目指す渇望、「道徳的な目的および神への奉仕」から独立した渇望を定式化した最初の人である。それは、あらゆる部分的な要求を廃棄する根本的欲求なのだ。こうした意味で、ニーチェは「悪の哲学者」、すなわち、自由の、すなわち全体性の哲学者である。すでにヘーゲルはーーーバタイユはこの点に関してヘーゲルに正当な解釈を下したーーー、自由と恐怖と死とを結びつける絆を指摘していた。全的人間とは、目的を持たず、その「生が動機のない祭りである」人間である。彼の生は、限りない欲望、燃焼への欲望、果てしない消費、分断を捨て、断片化を捨てて選択される「無限のせり上げ」である。全体性への渇望は、「曠野」へと通じており、それは迷宮であり、「熱烈な責苦」である。全体性への渇望は「曠野」へと通じており、それは迷宮であり、「熱烈な責苦」である。ひとつの断片以上であろうとする狂気、だが、あらゆる妥協にまさった狂気。人間は、自分が目指してる目的を神聖化し、それらを絶対的なものとして引き受け(だが絶対とは「幼虫の渇望」である)そうして彼は、彼を、彼の理解を無限に超えたひとつの全体性のただの一断片にしてしまうであろう承認を回避した。そしてニーチェは、偶像と理想とを、あまりに人間的な「現実」としてあばいた。人間の唯一の真実とは、「回答のない懇願であること」である。どうして人間が、神の死によって空虚なままになっている空間の中で、いっさいの道徳、いっさいの決定された目的の不在の中で、世界の無意味の中で生きることができようか。これが、ニーチェとバタイユに共通した問いである。

「悲劇的自然が崩壊するのを見て、それを笑うことが出来ること、それは神聖である」とニーチェは言う。破滅に瀕している生の、死をもたらす生の体験、運の肯定、換言するなら運命愛の肯定。賭は、同時に私の不安と私の運への意思の肯定であり、それは、あらゆる喜びに付きまとっている絶望であり、あらゆる生を蝕んでいる死であり、それは、諸道徳が「善」とか「悪」とか呼んでいるものの彼岸に、ニーチェが当時「生成という無垢」と名付けたもの、遊びに石を集め、その山を築いては散らかしてしまうヘラクリトスの子供の無垢を見いだそうとする意思である。この遊びの中に、ニーチェは、ヘラクリトスに次いで、世界の姿を見たのであった。

いっさいの理性、いっさいの言葉の彼岸に、世界を賭けとして生きること、それは新たな道を発明することである。ツァラストラはまたこうも言う。「私は新たな道をたどる、新たな言葉が私に与えられた。すべての被造物と同じく、私も古い言語にあきあきしている、、、。私にとって、すべての言語はあまりに遅すぎるのだ」。神の死の空間の中で、私は、狂気に陥らないために語る。しかし、死んだ神とは、大言壮語の無意味であり、それは、「主体」の裂け目、賭けの開始である。賭けようと望むこと、それはおそらく、語る術を、それにまた死ぬ術を学び直すことである。

    ジャン ミシェル レイ 「賭」     横張 誠 訳  より転載



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