そろそろ夏がやってくる。去年挿し木した紫陽花が成功して花芽がついてきた。紫陽花は梅雨の季節の豪華な花だ。ずっと長く楽しめるから鉢植えにして観賞している人も多いのだろう。
連れがなんちゃって花屋をやっている(ツーかアレンジメントの先生をやっている)せいで、日頃から家に生花が絶えることがない。鉢植えも切り花もなんでもあるし、毎月月末は太田市場で一番高級な華をワゴン一杯に仕入れてきて、おおそ20名ほどの生徒に分けている。家にも毎月8名ぐらいの生徒がやってくるし、後の人はWEBで教えているのだろう。宣伝広告を全くしていないし一般募集もしていないが口コミで向こうからやって来た人ばかりだから、「好きな事を探してやってくる」という現象が一般化したのだろう。熱海と東京の人が多いようだ。
田舎の別荘地でのリゾートライフが僕はもうすぐ9年目になる。この間で不動産物件を3つ買って1つ売った。
車は2台買って2台捨てた。金はいくら儲けたか覚えていないが欲しい物はなんでも買う贅沢なブルジョワライフをずっともう35年も続けているのだから、足りてはいるのだろう。もう欲しいものがほとんどない。メルセデスがベントリーやロールスに変わっても生活の質には大差がないが実行すればまた友人は確実に減る。(爆)
いつもにこにこ現金払いだが、同じ不動産屋で買ったり売ったりするので支店長と仲良くなった。金持ちの友人を紹介しろとか良い物件があるからもう一つ投資用にどうかとか言ってくるが、別段不動産投資なんてかったるいことは面倒でやりたくない。金は腐るほどあるから使い切れないし、そんな使いきれないものをこれ以上更にどんどんと増やしても被害者が増えるだけだから、適当に波に乗って快楽生活が出来ればそれで満足だ。足るを知るではないが、金は余計にあっても面倒なのである。だから何か欲しいものがあれば真面目に金を作ろうとするから良いのだが、その欲しいものがもうとっくに無くなってしまった。金で買えるもので欲しい物がもうあまり無いのである。家も車も家具も時計も靴も高級品は飽きた。もう何でもいいわと思う。昔はクロコダイルの靴をオーダーで200万で作らせたりもしたが、今は3万円の国産広島のスニーカーで良いやと思うから197万円分安上がりなのである。
そもそも誰か特定の個人相手に売買するのは煩わしい。相場だったら市場で反対売買する相手は特定できないことが大半なので「後腐れ」がないのである。この世で一番面倒なのは「人のお世話」をすることに尽きるのだから、金の絡むことではなるべくしたくないねえと思うのだ。周囲では病気や怪我で入院したり、病死したりする人がボチボチ出ているし、人間は順番で 老ー病-死 というプロセスを必ず辿るのだから、還暦を過ぎたらどんな人でも自分の順番が近づいてきたねと思うだろう。「やり残した事」があれば、早めにどんどんとやっておかないと時間切れで切ない思いをすることになるが、「さて、俺は何かやり残したか?」と自問した時に「後継者がいないなあ、、、」という事だった。酒田の逆張りの練達の相場師という変な職業をやるような人はすごく稀だろう。100万人に一人?いや1000万に一人ぐらいしかいないだろう。そもそも条件が実に厳しい。普通の大学教育を受けた者では不可能だろうと思う。野生児というか反体制というか破壊大好きというか「殺すということをクールに連続して出来る人」という条件をまず満たせない。軍隊とかエリートのスポーツマンとかそういう素養、経験がないと無理かもしれない。反射脳の育成というのは容易ではないからだ。常に変化に対して反応する行為が波と同期しならがわずかな鞘を連続的に抜いて行く行為だからしている事は論理矛盾だらけなのである。合理的精神では絶えられない。つまり無意識の反射の領域の訓練なのである。
AIがいくら発達しようが、高速頻度売買でナノ秒で売買注文をするアルゴリズムのシステム売買が実効されようが、それに打ち勝って結果を出すという人間の感覚と反射という事なのである。それは「逆張りと間」という日本的な、「伝統的な文化的時空間」なのだろう。それに最初に気がついて指摘したのは ルースベネディクトだった。酒田の相場師は文化的時空間の創造者なのである。