快感と幸福には「肉体的努力」のほうが金より数倍必要なんですね。
リアルな生活が充実しているのを「リア充」と言うらしいのを息子の会話から知ったが、実はブログという電子日記のようなものは(公開が原則だから日記とは本質的に異なる)この個人のリア充を前提条件にして成り立つ擬似的なコミュニケーション世界であるという事だ。だから「俺はこうだもんねー、いいだろ?」というある人のスタートが「でも僕はこんなだよ?どうだ?」という反復によって駒が進むという具合に展開する。こういう決まり事なのだから、わざわざ否定的なコメを書き込む意味がないのだが、オバカな人は自分の意見を書いたり、聴いたりする場所だと本気で思い込むからややこしい炎上なんて馬鹿げた事がホントに起きる.「言わせておけば良いんですよ。どうせ自分とは直接関係ない事なのだから、、」という位の処理をしておけば良い。ネットの会話なんてそんな程度の事である。
ところがタマに超マジな人がいて、真剣な顔をして「相場師になりたいので弟子にしてください。」とか本気かジョークか言って来る人も5年に5人ぐらいはいるのね。で、こちらは暇だから先方が会いたいと言えば「別にお好きにどうぞ、会うだけならいつでもおいで」と礼儀がわかる相手なら暇つぶしに会ってみたりする。
するとリア充の適当な世界がいきなりマジな世界に変るので、僕よりも相手のほうが緊張するらしい。デカイメルセデスで迎えに行ってやって、広い見晴らしの良い部屋で大きくて長いグラフを3000枚ぐらいたくさん見せて、場帳と道具をみんなこんな量はいるんだろ?と見せて、典型的なうねり取りやリズム取りの50-60回の1年程度の連続譜を見せてやると、世間話やコチラに合わせて何か話していた人が突然まず黙る。理由はきっと、現在の自分の努力の数量と質が僕との比較でどうか?=圧倒的に不足しているという直感による認識にすぐ変るんだろうと思われる。だから軽い質問の意味に「常にアホと返される本当の意味」が少し想像できるようになるんだろうと思う。その意味では、直接の面談というのも値打ちがあるんだなとは僕は思うので、礼儀がきちんとしている人は暇なら拒んだりはしない。
自分の感覚が「逆張りはマイダスタッチ」になるまで真剣に練習すれば、マジにマイダスタッチなのだ。建てる、落とすというのが数日でも当日でも、あるいは2週でも何でも良いが100%利食いで落ちれば、金なんてどうでも良くなる。ロールスもカローラも同じ象徴価値しか意味を持たないという事になる。
相場師は場所と時間をあまり選ばない商売であるから、田舎の土地の安い自然環境の恵まれた水と空気と食物が上等な場所で温泉三昧で生きて行くのに大したお金は必要ない。多分都会の1/3ぐらいだろう。東京でカードで100万以上毎月使っていたのがせいぜい30万ぐらいしか買うものがない。これもやってみた人しかわからない。目黒や代官山の素敵な150平米のフラットは現在5億円であるが、熱海なら2000-3000万で同じものに掛け流しの温泉がついて来る。その記号の差異47000万分は遊んでいて良いという事だから、時間と手間がお得なのだ。だから仕事なんてしてもほとんど意味が無いとますます思うようになる。でもこれを「リア充」というのがホントの言葉の使用法なんじゃないの?と思うのだね。
中学だか高校だかの数学で「順列組み合わせ」という授業を受けた覚えがあるが、内容は全部忘れてしまった。500ぐらいの選択枝から項目別(10ぐらいの要素)に自分の好きなものを選んで実行するという問題が仮にあるとして、職業と地域と時間と思考と実行の欄がきっとポイントなのだと思う。
この5点に差異化されているかどうか(デイファレンシエイトされている競争条件かどうか?)で結果の大半が決まるだろうと思われる。勇気が無いと選べないという前提が無論あるだろうが、、。