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Channel: 猫次郎のなんたらかんたら書き放題
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本当の事を言え!

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ストーブで作ったラタツゥーユ

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それでアレンジして作ったパスタ

T  最初にも言いましたけれど、『決壊』の中に繰り返しでてくる「本当のことを言え」という言葉は、この小説のキーワードになっています。つまり、ポストモダン的であるということはどういう事なのか。
それを一言で言うならば、この社会の中では「本当のことは言わない」と宣言するしかないということです。それに対し、対立している社会の側は「本当のことを言わせまい」とする。社会には幸せのファシズムが溢れて、「みんな幸せだろ?幸せが最高の価値だよ」と信じ込まされている。みんな薄々「本当かな?」と思っているけれども、本当のことを言うと困ったことが起こるので言わない。だから、社会の建前は「本当のことを言うな」です。
 で『決壊』の中に出てくる「本当のことを言え」という言葉は本来モダンな立場だと思うんですよね。いわば近代文学は、「これだけは本当のことだ」という告白ですから。「どんなフィクションであってもこの部分には本当のことがあり、私はこれを言明する」。絶えず「本当のことを言うな」という社会に対抗するためには、そういう言い方しかなかったわけです。
 僕の感覚だと、今までの平野さんの小説開発部が作った最新鋭の車には、「本当にことはないんだ」というステッカーが貼ってあった。『決壊』は、一見ステッカーに「本当のことを言え」と書いてある150年前の車に見えるけど、これが公道を走るとすごくカッコいい(笑)。どこかで僕たちは時代が直線的に進むものだと思ってきて、イデオロギー対立がなくなったら千年王国が来ると信じていた。ところが、その後にはもっと古い原理主義が出てきて、歴史がまっすぐ進むことへの信がすっかりなくなってしまった。こういう時代に、「本当のことを言え」という近代文学が最初に持ってたスローガンが一番しっくり来るんだな、と思いました。

H スラヴォイ ジジェクが「全体主義体制を維持しようとしたときに一番困るのはバカ正直にそれを信じてる人で、ネタとしてシニカルに受け止める人が行動面では従うからこそ体制は保たれていた」というような言い方をするじゃないですか。そういうネタによって世の中持っているんだという考え方を、 ジジェクは批判していて、僕自身もネットでガス抜きされたシニシズムによって逆に現体制が強化されているような現在、「本当のことを言うべきだ」とは思うんです。ただ、「じゃあ本当のことって何なの?」という今の時代の難しさがこの小説のテーマでもあるんですね。文学史の話で言えば、ある時期までは自然主義と耽美主義は同時代に並列してた現象だったのに、戦後になって突然、単線の世代論になってしまう。

T  それ以降は、世代間対立しかないよね。

H  しかも世代のあいだにも別に積極的な同一性はないんですよ。だから『決壊』で書いた「本当のことを言え」という言葉は、反動ではなくて、ポストモダン時代を経て歴史が単線で一直線に進むという考え方が解体された後に、もう一回大きな円を描いて戻ってきた命題だと思っているんです。

T  この沢野崇の悩みというのは、平たく翻訳すると「私とは何か」ということで、ある角度から見ると、「そんなことはもう120年もみんな書いてきたじゃないか」という問題なわけです。が、もうちょっとシンプルな形でやられたらつまらなかったかもしれないけれど、ここまで執念深くやられると目が覚めた感じがするんですよね(笑)。「文藝」で斉藤美奈子さんと対談したときに、もっと若い世代の作品の特徴としてデジタルハイビジョン的リアリズムという言葉を使いました。それは、一言でいって過剰なリアリズムです。そして、それ故に、非リアルな触感をもってしまう。『蟹工船』がいま目新しいように、「私」の問題も時代とともに変形している。要するに、「私」はいつもライブの問題として存在してきたことを実感してしまうのです。決して、解決済みの問題ではないわけですね。
 この小説のもう一つの特徴は、)インターネットをかなり意識的に使っていることでしょう。モダンの時代はインターネットというものを知らなかった。インターネット時代の「私」はモダンの「私」と、違ったものになっているかもしれない。それから、モダンとは歴史区分ではなくて思考方法の問題だから、モダンは絶えず更新されるべきだという考えがありますが、そう考えると、新しいバージョンで作り出されるボダンに、「私」もアップデートさせていくべきかもしれない。

H  そう思います。「古典主義」と「ロマン主義」みたいに、「モダン」と「ポストモダン)も思考スタイルの問題としてモデル化されるでしょうね。

T  インターネット後の状況で、こういう感覚は想像してなかったという部分がずいぶんあって、つい最近も思ったのですが、ヤフーニュースで例えば「フィギュアスケートのコーチが教え子を強姦、逮捕」となると、読者が「あそこをちょん切ってください)「即死刑」とかコメントを寄せ、「同感した」というレスが数千数万とあっという間に集まる。気持ちはわかるけど、強姦で死刑は法的にありえないわけで、匿名の無意識のちぶやきがそのまま言語になっていて、それに共感する人間がこれだけいるいんだという事実に恐ろしくなります。あるいは、そういう秘められるべきつぶやきが可視化されてもいいんだという巨大な合意に恐ろしさを感じます。ネットの世界は、近代の発展形なのか終末形なのか、それとも近代じゃないステージに来ているのか。

T  高橋源一郎 
H 平野啓一郎    対談 21世紀の「人間」を描く  より転載

5月の大型連休も後半に入ったようだ。こちらは サンデー毎日がもう22年もずっと続いている怠け者だから、普段リーマンで急がしい人たちが休んだり遊んだりしているのを邪魔しても悪いから、ずっと普段の通りで料理をしたり、読書をしたり、買い物にいったりと平常通りの老後引退生活をしている。
頭が良くて仕事が出来る男は30歳までに成功して、後はリッチな老後の引退生活を海辺の別荘で美女と送るというイメージを学生時代からずっと持っていたから、結局それができたのは海辺ではないけれど都会の億ションで40歳の時だった。きっとまだ都会の贅沢に未練があったからだろうと思う。それでも56歳になった時に大きな地震が起きて、都会の暮らしに疑問をもったせいで一人と猫で田舎暮らしを始めてみたら、これがなかなか快適だった。ポイントは田舎暮らしといっても、ご近所とか地域融合なんてのは煩わしい事は最初から無視して、リゾートと別荘暮らしに特化すれば、都会のスカスカの空疎な快適空間での生活がそのまま可能だろうという事だった。だから金があれば出来る事というのは、田舎でも可能な楽チン暮らしという事でもある。
 レシピで今年始めてのラタツーユを作る。茄子とパプリカとズッキーニの良いのが手に入ると作りたくなる。適当に15ミリの輪切りにして、オニオンとニンニクと唐辛子を焦がさないように透明になるまで炒めて、軽く塩を振っておいた野菜を加えて炒め、トマトソースで煮込むだけだ。鍋が重要で厚手で蓋が重い事が美味しくできるコツだろう。水を一滴も加えないですばらしい料理になる。

僕はこれに厚切りのベーコンを加えて茹で上げたパスタを絡めて、パルミジャーノをたくさん削ってかける。素晴らしいパスタになるんだ。都内のどんな素敵な三ツ星のイタリアンより美味しいと思うね。
 21世紀の人間の個人的な幸福っていう一例なんじゃないのかと高橋と平野の対談を読みながら感じたのだね。あまり複雑な事ではないんだね。ゆっくりと楽しく快適に暮らすという単純化がきっと一番重要なのね。
21世紀の人間はきっと毎日遊んで幸福に暮らす。だから大型連休が楽しみな人は20世紀の古くて無能な人という事かね?(ゴメンネ、本音書いて)

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