少年サッカーチームの孫 一番左のチビ 蒼 10歳
熱海のオーベルジュ VILLA DEL SOL
ここで台湾のお客さんが結婚式を本日していました。徳川家の図書館を麻布から移築して作ったようです。1日一組限定の豪華なヴィラです。お金があると良い事も多いね。
親しい友人の口から飛行機のなかでの奇妙な体験談を聞かされて、私がただちに記憶によみがえらせたのは、もう随分前に読んだピエール ド マンディアルグ の『レオノール フィニーの仮面』という文章からの一説だった。次に引用してみる。「人間的な領域に話しをもどすならば、ヴェネチアとパドヴァのあいだのブレンタ運河の岸に、16世紀になって建てられた、マルコンテスタ荘の奇妙な便所のことを不問に付するわけにはいかぬだろう。排泄の瞬間は、魂のなかの曖昧なものの時刻とあまりにも緊密にむすびついているので、これをその瞬間において捉えようと努力するのは適当でないかもしれない。ところで、マルコンテスタ荘における便所は、この地方で最初につくられたものの一つであろうが、ドアがついていなくて、そのかわり一個の仮面が備えつけてある。そこに閉じこもる人間は、この仮面で顔をかくして用を足す仕組みになっているのだ。」ひとたび仮面で顔をかくして匿名の人間になってしまえば、用便中のすがたを人目にさらすという、人間ならばだれでも持っているはずの恥ずかしさの感情も、嘘のように消えてしまうらしいのである。いや、そう簡単に消えるかどうかは分からないが、少なくとも仮面という魔法の小道具の利用によって、マルコンテスタ荘の設計者が、そういう方向をめざしていたということだけは間違いないだろう。仮面は人間を匿名化するといってもよいだろうし、あるいはまた、個性を廃棄するといってもよいだろう。民俗学や人類学の貢献によって、仮面の社会的意義は徐々に明らかになりつつあるが、そういうものに私はいちいち律義につき合おうとは思っていない。私はただ、仮面の効果的な利用によって、いかに人間が踏み越える困難な人間的限界を突破するか、ということの例をいくつか挙げてみたいと思う。人間的限界を突破するということは、日常的現実の外に超脱することだ、といい換えてもよいであろう。どうやら仮面には、そういう働きがあるらしいのである。マルコンテスタ荘の便所の例も、ごくささやかながら、こうした例の一つにほかなるまい。イギリスあるいはアイルランドあたりでは、死刑執行人がしばしば仮面を用いるということがあったようである。もちろん、それは威嚇のためとか、一種の呪術的あるいは儀式的な意味とかいったものがあったかもしれない。しかし私の思うのに、これはたとえば銃殺や電気椅子による処刑の場合、多数の執行者に銃を射たせたりボタンを押させたりすることによって、誰れが致命的な一撃をあたえたかを曖昧に分からなくしてしまうことにも似た、匿名化の方法の一つではなかったろうか。職業として人間に死を与えるには、それだけの手続きが必要だったのであろう。仮面をつける習慣をヨーロッパ世界に広めたのは、まず16世紀ヴェネツィアの高級娼婦だということになっている。ヴェネツィアでは、仮面はやがて高級娼婦ばかりでなく、一般人のあいだにも急速に普及して、貴族も市民も、男も女も、こぞって白昼に仮面をかぶって大道を闊歩するようになった。こういう例は、世界の歴史を見わたしても希有の例に属するであろう。「18世紀のヴェネツィアはほとんど一つの仮面文化である」といったのはロジェカイヨウであるが、こうしてヴェネツィアは300年にわたって仮面文化を洗練させたのだった。年齢も性別も階級の差もなくしてしまうヴェネツィア式の仮面は、誰もが一瞬、幻覚のように自由と平等を楽しむことができる社会を実現していた。しかし仮面がどこよりも効果を発揮していたのは劇場においてであって、これを顔につけると、貴婦人たちはその反応をだれにも知られることなく、安じて舞台上の卑猥な言葉を楽しむことができたんだという。これも匿名化のための手段といえるかもしれない。いわゆる仮面舞踏会が貴族社会であれほど好まれるのも、仮面というものが、個々の人格を無責任に自己解体させるような集団感情を誘発したからにちがいあるまい。ヌーディストキャンプに着衣の人物がまぎれこんだときのように、もし素面の人物が仮面舞踏会にまぎれこんだとしたら、おそらく会場の空気はしらけるであろう。これは私が或る筋から聞いた話しであるが、乱交パーティーの主宰者は、参加者のあいだを隔てる個性の壁を取っ払うために、全員に同じ浴衣なら浴衣を着せるのだそうである。しかし単なる均等化、あるいは画一化とはちがって、仮面はなによりもまず自己諧謔のための手段であり、日常的現実の外側にある一つの機能を手に入れるための手段である、ということを忘れてはなるまい。マンディアルグの文章のなかに出てくる「ヴェネツィアとパトヴァのあいだのブレンタ運河の岸に、16世紀になって建てられた」というマルコンテンダ荘について、ごく簡単に説明しておきたい。まずゲーテが『イタリア紀行』のなかで、次のように書いているのを見られたい。「パトヴァからヴェネツィアまでの旅について、ほんの数語を記しておく。ブレンタ河を乗合船に乗って、お互いに礼儀を重んじる行儀のよい、イタリア人たちと一緒に下った船の旅は、作法も乱れず気持ちよかった。両岸は農園や別荘で飾られており、小さな村が水ぎわまで迫っているところがあると思うと、ところによっては人通りの多い国道が岸辺に沿って走っている。河を下るのは水門によるので、船はいくたびか停まる。その暇を利用して、私たちは陸にあがって見物もできれば、豊富に提供される果物を味わうこともできる。それからまた船に乗り込んで、豊穣な、活気のある、生き生きした世界を通っていくのだ。」ゲーテがマルコンテンタ荘を見たかどうかは、この『イタリア紀行』の記述からだけでは分からないが、ヴィチェンツゥア、パドヴァ、ヴェネツィアと旅を続けているあいだ、アンドレア パラーディオの建築にあれほど熱中したゲーテのことだから、記述にはなくても、実際に見たということは十分に考えられてよいだろう。マルコンテンタ荘はブレンダ河くだりの最後を飾るにふさわしい、河口に近い海寄りの土地に建てられた、古代的な美しい柱廊玄関をもつパラーディオの小傑作なのである。別名フォスカリ荘ともいうが、これはヴェネツィア貴族の名門として知られるフォスカリ家の人々がここに住んだためだ。ヴェネツィアというラグーナ(潟)都市は湿気が多く、夏は極端に暑いので、そこに住む貴族たちはテラフォルマ(本土)と呼ばれる背後の土地に好んで別荘を建て、そこで夏を過ごした。とくにブレンタ河の両岸は緑の樹々が多く、ヴェネツィアからごく近く、水路によって小一時間で達するほどの便利さだったから、彼らが別荘をつくるには絶好の土地柄だった。「これらの別荘では、夏の夜、貴族たちが提灯をつけて祝典を催し、茂みのかげにかくれたオーケストラがヴィヴァルディや、ベルゴレージャや、チマローザの曲を演奏した」とミシュランのガイドブックに書いてある。イタリア語でマルコンテンタは不平の、不満の、あるいは失意の女の意である。なぜこんな不吉な名前がつけられたのかというと、この別荘にフォスカリ家の娘のひとりが幽閉されて、失意のうちに死んだからだという。また17世紀ごろ、このあたりの土地に疫病が蔓延して、一時はひどく荒廃したためだともいう。どちらにしても伝説で、あまりあてにはなるまいが、不吉な名前はかえって或る種の好事家の注意を惹きつけたにちがいない。げんにマンディアルグが目をつけているのも、幾分は、この別荘の名前の特異さのためではあるまいかと私は疑っている。しかしアッカーマンの『パラディーオの建築』やウィットコウアーの『ヒューマニズム時代の建築原理』に目を通しても、あるいは日本の福田晴虎氏や長尾重武氏の綿密周到なパラディーオ論を参看しても、ついに問題のマルコンテスタ荘の便所に関する記述は残念ながら発見することができなかった。建築学的な見地から眺めれば、一個の仮面を備え付けた便所なんて、取るに足らぬ小さな問題にすぎぬであろう。もし私が今後イタリアにあそぶ機会にめぐまれたら、忘れずにマルコンテンタ荘の便所をしらべてきたいものだと思っている。エドガー ポーの『赤死病の仮面』、マルセル シュオックの『黄金仮面の王』、あるいはジャン ロランの『仮面の孔』など、私の好きな19世紀の仮面文学は多い。ヨーロッパから東洋へ目を転じると、私は蘭陵王の故事を思い出さないわけにはいかない。舞楽の曲名になっているから周知であろうが、北斉の蘭陵王長恭が 自分のやさしい顔をかくすために怪奇な面をつけて、五百騎をひきいて出陣し、北斉の軍を金遙城下で撃破したとう故事である。三島由紀夫の短編に『蘭陵王』というのがあるが、おそらく三島には、この美しい名前のひびきに見せられたところがあったのではないか。『蘭陵王はかならずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥じてはいなかったに違いない。むしろ自らひそかにそれをほこっていたかもしれない。しかし戦いが、是非なく獰猛な仮面をつける事を強いたのである。しかしまた、蘭陵王はそれを少しも悲しまなかったかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとしていたかもしれない。なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかわり、それだけ彼のやさしい美しい顔は、傷一つ負わずに永遠に護られることになったからである。本当は死がその秘密を明かすべきだったが、蘭陵王は死ななかった。却って周の大群を、金遙城下に撃破して凱旋したのである。」いかにも三島らしいロジックで、彼は武勇のほまれ高い蘭陵王が戦場で死ななかったのを、画竜点清を欠いた生涯として、ひそかに惜しんでいるのでもあるかのごとくである。私は最後に、モーリス マーグルの詩集『地獄の登攀』から抜いた一遍の詩を紹介しておきたい。マーグルは20世紀の半ばまで生きた作家だが、どこか印象派の生き残りみたいなところがあって、ちょっと古風な仮面の詩をいくつか書いている。そのうちの一つ、題して『サムライの仮面』という詩である。今宵、恋人は恐ろしい日本の仮面をかぶり、身ぶりよろしく異様な踊りを踊ってみせてくれた。まるで悪鬼のように、凄い笑みを浮かべつつサムライの火色の漆の絶望を表現した。ガウンを頭の上まで跳ねあげたので、そのぴったり合った両膝と、力強い上半身の、美しい隠れた線があらわになり、その上に恐ろしい仮面が踊っていた。けれども彼女が仮面をとろうとすると、すでに火色の漆は女の顔と一つのものになっていた。爪はむなしく、彼女の顔にはりついていたこの恐るべき仮面を引き剥がそうとするが、美しい卵形の顔の上に、傷のようにくっついていて、いつまでも離れないのは醜悪なしかめ面だった。美よ! 一瞬間でもお前を忘れるものに禍いあれ!恋人はじたばたしながら恐怖の叫びをあげた。その声は、絹の長毛と色あざやかな漆の下で、やがて間遠になり、痴呆めいてくるのだった。『 澁澤龍彦 奇譚集 』 仮面について より転載=======================================京都も鎌倉も美しい街だ。いずれも永い歴史のある街で、たたずまいがしっとりとしているし、どこかでなつかしい昔の日本の幻影というような気配がある。1ヶ月ほど前、義母をつれて長谷寺と大仏のある寺に花見に出かけた。最後に八幡寓に参拝してその帰りの小町通りから少し入った古書店で、偶然に店頭で『 澁澤龍彦 奇譚集 』を見つけて即座に買った。澁澤は大学時代からの愛読書であり、マルキドサドの「悪徳の栄え」の翻訳販売に関してのわいせつ図書販売、同所持に関する最高裁有罪判決(昭和39年)から出来る限り集めていたけれど、そもそも売れない高い本が多いから絶版化して手に入らない。それがたまたま鎌倉散歩で遭遇したのだから、犬も歩けばという文字通りの好運となった。人生のすすみ行きの決定因の最大値はこうした「運勢」だろうと個人的には強く思うが、これの有る無しで行って来い結果が異なる。結果オーライなら警察はいらないという事で、それで僕は随分と好運なことが多かったように思う。さて運という不思議さに関してという意味で、現代は情報化社会とかいうけれども、そういう情報なんて僕はほとんど全く信じていないし、当てにしない人生だったと自分で思う。自分の好きな事しかしないでここまできたし、きっと後の残りも同じだろうと思う。それでなんとでもなってきたのだし、それはきっとそういう好みが運を呼んだという事実があった、この本が500円で目の前にぶら下がるというような出来事も、平日に花見をしたからだろうと思う。でもいらない人には値打ちなんてゼロだろう。いかすぐれた価値があると思うテキストだって、猫に小判というケースのほうが100倍も多いのだろうとも思う。文化というのは所詮、そういう片務的なものだろうと思うな。さて昨日はマダムの母のにのヘルプで東京を往復した。たまたま孫のサッカーの試合があるので見物しろということで8人制の小学生のサッカー試合を始めた見た。なかなか孫は足が速いが、8割が6年生のなかにあって4年生ではやはり体が小さいなあと思った。当たり負けするのだ。それでも後半の20分をよく走っていた。結果は2-2で引き分けだったようだ。一方妹は雲梯と鉄棒の天才である。実にすばやくバランスが宜しい。きっと運動好きの父親に似たんだろうと思う。これも僕からみたら突然変異なのだが、変異が起きる前提には交配の自由度が前提となっているのだろうと思う。ほとんどの人があまりしない事が自然にできる人。そういう気質が重要だと僕は思って物事をすすめてきたように思う。やがて全ては消滅に向かうという摂理。それはある意味で僕が澁澤のテキストから大学時代に読み取っていたことでもあった。そんななつかしさをこめて奇譚集を読み進めている紫陽花の頃だ。