ある夏、大学の喫茶店で、夕暮れの窓の風景を眺めながら麦酒を飲んでいる青年を見た。これはきわめて日常的な話だ、誰だってこの青年の誰かれを、抽象的にいえば、つねに見ているのである。この青年は、僕自身であり、あなたでもある。
ぼくはその、いわば反個性的である青年の隣のテーブルに座り、雨もようの暗い空を見あげ、一瞬、僕からその青年の存在は消えてしまった。ぼくもまた反個性者となった。
ところが、不本意にぼくは、自分の耳につぎのような声がささやかれるのを聞いたのである。茫然としているような、力点のふたしかな声で、しかしあきらかにぼくむかって、ーーーぼくは明日結婚するんですよ。
ぼくはふりかえり、その見知らぬ青年が、涙ぐんだ眼でぼくをみつめているのを見た。
青年はぼくを非難しようとしているのであろうか?その青年にとってぼくは、かれにぼくにとってそうであるように反個性者にしかすぎない。したがって、かれの非難は次のように敷行されるべきものである。
ーーー反個性者よ、人間よ、ぼくは明日、結婚するんですよ。結婚制度を数千年にわたって文化の発生以来とでもいっていいほど長いあいだにわたって守っている人間よ、ぼくは明日結婚するんですよ。
ぼくは青年に黙ってうなずき、それから急に不安な気持ちにとらえられて、そのまま立ち上がると店を出た。ある夏の夕暮れのことだ、土埃と湯気の匂う舗道を歩き、数多くの人たちと行きかい、しばらくするとぼくの心には、もう不安はのこっていなかった。
それだけの体験だ。しかしぼくはたびたび、あの反個性的な青年の声を思い出し、もの思いにとらえられる。それは、ーーーーぼくは明日自殺するんですよ。
という言葉を、あたかもその時ぼくが聞いたのであったならば、やはりそう感じたにちがいない重く深い感覚、不安の感覚とともによみがえってくる。しかも、自殺という言葉は不適当なおきかえであるかもしれないのだ。
明日の自殺、それは人間にたいする運命としての意味を、かならずしも持っていない。明日の自殺、それはあの青年がそれを中止する自由を持っているし、ぼくがかれにそれを中止させることもできる。この言葉は、ぼくは明日、自殺するんですよ、という言葉は、真実の言葉という感じを聞く耳にあわせあたえない。これは欺瞞の言葉だ、人間はこれを信用する義務がない。社会生活をおこなっているものとしての人間は、この言葉が自由に発せられるのを見逃す権利もない。
しかし、明日の結婚、それは、逆に、運命的な、ある、犯しがたいものをもっているのである。また、人間は一人の青年にたいしてそれをとどめることはできないし、一人の青年は、自分の具体的な明日の結婚をおもいとどまるためには非常な勇気を要請される。これは社会生活者としての人間にとって、放火とか殺人とかと同じような、破壊行為だ。しかも、かれは明日の結婚を破壊するという困難な作業を、ひとりぼっちで、あらゆる人間に背を向けて、孤独に行わなければならないのである。
むしろぼくは次のように言葉をおきかえるべきであろう。
ーーーぼくは明日、自然死するのですよ。
あの夏の夕暮れ、まったく唐突にぼくに話かけた青年の眼が、涙に濡れているのを、ぼくはいま理解することができる。かれは、自然死がそうであるように、人間にとってまったく不条理な大怪物にとらえられようとし、そこで黙っていることができなかったのだ。
ここであきらかにしておかなければならないのは、この青年が、決して、結婚という不条理な大怪物を拒否しているのではない、ということである。不安と戦いながら、かれは怪物のまえを自分の意志において逃げ去るだけではない。かれは耐える。
自然死についてぼくは、ある体験をもっている。それはぼく自身の父の死にたちあった時の体験で、ぼくの少年期の主調低音はそれから導かれた。父が、危篤になったとき、家族がその床のまわりに集まった。父は意識を失っていなかった。眼も見ひらいていた。しかし、かれは家族たちのいかなる呼びかけにも応ぜず、森の奥でひとりぼっちで死ぬ獣のようにひっそりと黙って、眼だけしっかりひらいていた。
医者は、父が意識不明なのだといって、泣いて叫ぶ家族を納得させようとしたが、ぼくはそれが正しくないことを知っていたのである。父は死という強大な怪物の接近を、不安におしひしがれながら感じていた。そしてかれは、死という大怪物を決して拒否しようとはせず、恐怖とともに受け入れようとしたのである。父の眼はそれをあきらかに示していた。父が死に、仏教の僧がやってきて読経したとき、ぼくは、その意味不明の一種の歌が、あの死の寸前の父の眼にぼくが見たところのものを説明しときあかすべく不毛な努力をかさねているもののように思われた。僕は僧を恐れ、また、成長してあの経の意味がわかり始める日のことを絶望的に恐れて少年期をすごした。
ぼくは死を恐れていたが、それよりもなお死を拒否せず、納得する人間の精神をおそれていたというべきだろう。ぼくの心にもまた、この怪物にひざまづく心がおきかわる日がおどずれるのだと思うと恐怖にうちひしがれる思いがした。それはぼくの少年期の恐怖のもうひとつのものとつながる。別の恐怖とは、宇宙への恐怖だった。宇宙の拡がりに対する恐怖。ぼくは星座表に夢中になっていた一時期をもっているが、星の群れのそのまた奥に限りない空間の拡がりがあると思うと、眼も眩むほど不安であった。またそれは、ある時期を過ぎると、次のような形の不安に発展した。人間一般がこの宇宙の無限のひろがりを殆ど意に介せず暮らしていることの怪物性!
この恐怖を救ってくれたのは宇宙物理学の通俗解説書のアインシュタインに関する部分で、私はそれ以降、この物理学者に宗教的な畏敬の念をいだいていた。また、抽象という言葉の真の人間的意味について発見したのもこの黄色い紙に刷られた不思議な書物をつうじてであった。ぼくは思い出す、理科実験室の隅の木椅子と、それに腰をかけて読書する少年をめぐる暗く湿っぽい光線を。
この二つの恐怖は、ともに無限の感覚とつながっている。死=時間的無限と、宇宙=空間的無限と。そしてぼくは再び、少年期の愛読書であったものの一冊の表題が<時間、空間を横切って>という胸をときめかせる一句であったことを思い出す。それには、牙が長くのびすぎたために滅亡した一種の虎の種族の想像的復元図があって、それも、また、死についてのもの思いをかきたてるものであった。
ぼくは25歳の誕生日に結婚したが、その前日、ぼくが考えたこと、回想したことは、これらのことであった。ぼくは夕暮れに一人で喫茶店に座ってものを考えていた。ぼくは、その寒い夕暮れ、自分がじつに深く消耗しており卑小な弱い存在となってい、反個性的な存在であるのを感じた。ぼくは不安におしひしがれ、暗い沈み込んでうきあがれない気持ちであった。
ぼくはこれを誓うことができるが、その夕暮れにもまた、明日の結婚を積極的にのぞんでいた。ぼくは昼のあいだじゅう、結婚式の準備のために走りまわり、新婦にための蘭を遠くまで電車にのって買いにいったりもしたあとであった。しかし、ぼくは自分が、隣の席にいる見知らぬ男に心からの感情をこめて次のように話かけたい気持ちであるのを発見し、しかもそれを驚きもしなかった。
ーーーぼくは明日、結婚するんですよ。
ぼくはその言葉をはっしはしなかったが、その言葉が発せられ、その言葉のもっとも深い意味を理解した見知らぬ男から力づけの言葉をかえされるという理想的な人間コミュニケーションを空想し、涙ぐましい思いにとらえられた。
家に戻ってから、深夜だったがぼくはふいに鏡を見たいという激しい欲求にとらえられた。滑稽な話だが、あいにくなことにぼくは部屋をかわったばかりで、鏡は未整理な書物の山の下にあった。そこでぼくは紙とインクとガラスを使って鏡を作り、それで自分の顔を見た。とくに眼を僕は見た。
ぼくは自分が父親の眼ときわめて似かよった眼をしているのをあらためて発見した。ぼくは父親の種族であり、父親が耐えていたように、黙って耐えようとしていた。ぼくは不可有境に出発したかった。
結論にたいする、あるいは新しい結婚者への、批評というものがあるならば、ぼくがそれを初めてうけたのは、ある壮年の文学者によってであった。文学者は次のような意味の批評をおこなった。
ーーーきみは結婚して、明るい顔になったよ、かつてきみには独身者の暗さがあった。
独身者の暗さ、それは動物的な暗さだ。動物世界の暗闇にむかって窓のひらかれている暗さであって、その窓に照明をあてることはできない。
結婚していない青年と結婚している青年とをくらべると、前者には激しい魅力があるが、いったんホテルの個室にとじこもると、前者にたいしては本能的な恐怖を感じる、とある一人の、不幸な恋愛をつづけてきた女優から聞いたことがある。ぼくらはつづいて次のような問答をおこなった。
ーーー独身者の青年の性器は凶器のような印象を与えるというわけですか?
ーーーいやそういうことではなく、その独身の青年には肉体の内部に、暗い穴ぼこのようなものがあるように感じるのよ、それに触れると、とりかえしがつかないような気がする。ひとりぼっちで住んでいる青年の部屋の壁に穴をあけて覗くとするわね。その青年が一人だけでどんなことをするか、奇怪で怖い。自分の人間としての本
質を否定しなければならなくなるような行為をその青年がするとしたら!独身の青年と寝ることには、そういう不安があるのよ。
ーーー逆にいって、ぼくの友人に処女恐怖症の男がいましたよ。かれは農家の長男で、やがては田舎の処女の娘と見合い婚をしなければならなくなる筈だったから、結婚を戦争のようにおそれていたな。両親を説得できることができるなら、旧赤線の娼婦と結婚したいといっていた。四十近い娼婦に十九歳の農村の娘の服装と化粧をさせて結婚したいといっていた。この場合をどう思いますか。
ーーーそのお友達は、不能じゃないかしら?あたしはそういう人を何人か知っていたけど。
この問答は、おそらくその時、まだぼくが独身青年の一人であったために、性的な側面を強調したきらいがある。性的なかげをあわせもつものではなく、性的世界の外の恐怖が結婚生活にあらわれることがある。それはとくに永いあいだ一人で暮らしてきた青年が結婚したときにおとずれる恐怖である。
ぼくが結婚してもっとも痛切に感じたのは、つねに四十六時中、他存在が、はっきりといえば他者が自分のそばにいるという意味である。ぼくはほぼ十二年のあいだ一人で下宿生活をしてきた。ぼくにとって個人生活とは、文字どおり、一人だけで一つの部屋にいる生活であった。ぼくから発する意識の矢はぼくにまっすぐ戻ってきた。
ぼくは少年期の後半を、そして青年期の前半以上を一人で下宿に暮らしてきたが、そのあいだに孤独な存在が体験する危険のすべてを体験したといっていいと思う。一人の青年が閉じこもっている部屋では、じつに様々なことがおこなわれる。かれは自分の殺人者的資質を発見することがある。かれは自分が発狂寸前までいたっていることに気がつくことがある。
ぼくは一昨年、礼文島に集団の一員として旅行したが、冬のさかなの極北端のこの島で、ぼくは殆ど一瞬も一人でいる機会がなかった。雪と荒れた海のなかにとじこめられた十日間のあと、ぼくはとくに許可をえて札幌にひとりで戻り、ホテルの一室で三日間をすごした。最初の夜、ぼくは鍵をとざした部屋のなかを、熊のように吠えながら這いずりまわり、それを非常識だとは思わなかった。三日のあと、やっと平衡をとり戻してぼくは集団の中へ帰ったが、この三日間の孤独な生活がその中間にはさまれなかったら、ぼくは自分が発狂したであろうと信じている。
結婚したあと、ぼくは独りの生活が内包している様々な危機に思いいたった。そしてそれをあらためて検討する欲求にとられらえているが、結婚生活にもまた、人間存在の根元につながる恐怖が顔を出すことがあるのである。
きわめて平和な夕食のあと、ぼくは妻と、外国の映画監督の談話をめぐって話しあっていた。それは殺人の方法についての談話で、そのうちぼくはゲームを試みる気になった。その談話を骨子にして恐怖物語をつくるゲームだった。ぼくが勝って、先に物語を話し始めた。
ーーー二階に四つの洋室と水洗便所のある家を階下にすまっている家主から借りてすまっている若い作家とその妻がいる。職業がら、かれはあまり外出しない。台所のゴミを下水道に流すためのデスポーザーを、電気器具店から試用する目的で、その若い作家がかりて行く。電気器具商は、調子を見にきたが、デスポーザーは台所にでなく、推薦便器の上にのせてあったので気をわるくしてかえってしまう。その夜、家主夫婦はたびたび水洗便器の水が流される音をきき、眠れなかった。きっと下痢でもしたのだろう、と考えている。さて翌日、若い作家はデスポーザーの調子が悪いからと返しに行って、電気器具商をますます不機嫌にさせた。かれは怒って独りごとをいうほどだ、あんな若造はこのデスポーザーで粉々にしてやりたいよ、人間一匹くらい平気な機械だぜ!その後、若い作家の妻を見かけた者はいない。
ぼくにつづいて妻もその物語を話し、二人は大笑いをしたが、そのうちぼくも妻も、恐怖にとりつかれてしまった。ぼくには妻の顔、体、呼吸音、動き、それらすべてが奇怪に思われ、心に涌きあがった考えをできるだけ忠実になぞるなら、ぼくは次のように考えたのである。
ーーー自分より他の人間と一緒に、無防備で夜をすごす、そんな怖いことはできない!
妻もほぼ同様な恐怖を感じたのであるにちがいない。ぼくたちはたがいに、こわばった表情で恐怖におののきながら見つめあい、もしどちらかが動いたなら、叫び声をあげてしましそうな気配となった。電話のベルがなり、それがぼくの義父が羽田空港からかけているもので、一時間あと訪問してくれるという内容であったとき、ぼくも妻もやっと恐怖の発作から解放されたのであった。
一般に、結婚が女の空想力を退化させるという意見にぼくは反対であるが、ちなみに妻のつくった物語はこうだ。おなじく若い作家の夫婦で、その台所のデスポーザーが過度の使用のために壊れた。そこで工事人がやってくる。妻だけしかいない。工事人はデスポーザーの奥に手をさしいれて調べる。水がたまっていて、自分の手が影のむこうにうつり、それは奥から白くふやけた手がつきでているみたいだ。工事人は覗き込んだまま水をぬいてみる。水はなくなったのに、手の影だけは、いやにくっきりと残っている。
しかしこの恐怖は、単に夫婦のあいだだけでねく、この人間社会のなかにどこでもころがっており、いかなる組み合わせの人間間にもあらわれるものであると考えるべきかもしれない。結婚生活とは、その機能の本質において、社会生活の雛形なのだ。
結婚は、性的要素に人間の肉体および精神のなかでの妥当な位置づけをおこなう。
性的要素は、一般に独身の青年にあっては拡大されすぎているきらいがある。したがって、結婚した青年は、結婚というものを、いわば反セックスの域だと考えることがある。独身の青年というイメージは性的な匂いをもっているが、結婚した青年というイメージはむしろ性的なものとは逆の、反セックスの印象を与える。
ここでぼくはさきにひた、不幸な恋愛者である女優の例は次のようなかたちに解釈することができることになる。
彼女はセックスの匂いのするものを恐れ、反セックスの存在にかくれることを望んでいるのだ。そしておそらく彼女は病的にまで精神的であり性的な快楽を感じないがわの人間なのだ。彼女は、不能者の男としてキリストを考えるとぼくにかたったアメリカ人の女学生と会って話しあうべきだったかもしれない。おたがいに理解しあっただろう。
またぼくは、結婚が反セックスの域であるということの認識をつうじて次の現象を理解するようになった。
男色家の青年が女と肉体的な恋愛関係をもつことはめずらしいようである。かれらは、セックスの存在を背後におしやったような種類の美女とギャラントな友情をもつことでそれにかえている。
ところが重要なことは、こうした男色家の青年が、きわめてやすやすと女との結婚生活に入り、それを破綻させることなく維持しているという事実だ。ぼくはごくみじかに、このような幸福なる男色家の夫婦の例を三つもっている。かれは結婚によって初めて、セックスの破壊的な攻撃からまぬがれる域を、反セックスの域をかちえたのである。
しかし、あらゆる社会に悪人がひそんでいるように、幸福な男色家たちとその妻の夫婦にも悪しき人物がいる。かれらは、女と結婚しているということを罰則ルールとしてゲームをますます興味深いものにしようと試みるものがいる。また、心ならずもそのような、罪悪感と快楽のはざまにおちこんでしまうものがいる。ジイドの日記やサルトルの<自由への道>が、この悪人たち、あるいは犠牲者たちを描いている。
かれらは、この結婚という反セックスの域にこもることで、セックスを肉体と精神の秩序に平衡とともにくみいれる時期を失してしまった。かれらはもう、セックスの世界から逃れることができない。かれらは青春と別れる契機をうしなった。少年のようにういういしく、したがって二重に老醜をさらして、男色家の老人たちが渇いた老年を耐えなければならなくなるのは、この事情にふれた場合である。
結婚した青年が、さいわいこの罠におちこまず、反セックスの門をくぐりぬけたとき、新しい問題となってあらわれるのが、生殖の問題である。または反生殖の問題である。
少年たちが辞書をひっぱりまわして見つけだし、大笑いする言葉の一つが、生殖器という言葉だ。ぼくは思い出す、性器=生殖器の関係が少年のぼくにもたらした大笑いを。生殖器という言葉には、陽気にとぼけた滑稽なものと深刻なものとがつかずはなれず同居している。
結婚した青年は、性的抑圧から解放され、かれはもはや、自分の性器を、意志に反して欲望とつながる、半独立存在だとは考えなくなる。たちまちかれは、永い禁欲期間について忘れてしまう。
しかし結婚した娘にとって、生殖器としての性器は、たちまち野性の獣のごときものにかわり、独立を主張し、恐慌のみなもとになる。彼女たちは、妊娠または出産の恐慌からのがれることはできない。彼女たちは妊娠を多かれ少なかれ、外部(男性または処置の不手際など)からおしつけられたものと考える。自然死がそうであるように、彼女たちは出産を恐れ、それを不当だと考えても、拒否する権利はないのだということを知っている。人工流産の心理には、つねに欺瞞がある。ぼくは婦人科の医院にインターン生としてつとめている友人をもっているが、かれの体験では、そこへおとずれる人工流産希望者は、ほとんどみな、その処置を、外部(男や家族など)におしつけられ、拒むことができないのだという態度を示すそうである。そういう自称被害者に、それでは手術を中止して産むようにすすめると、彼女たちはたいしてのりきにならない。しかも彼女たちは手術台に上がるまで、突然気を変えた夫や恋人が手術中止をもとめて駆けこんでくることを夢見ているのだ。
妊娠、出産に関するかぎり、おそらく若い母親はつねに他力本願なのである。彼女たちは極力、責任回避をもとめる。そして、いったん子供が生まれると、こんどは逆に、彼女たちは自分しか、この全能の創造主たる自分しか信じなくなる。
ぼくは出産について次のような仮説をもっている。女性にとって出産はもうひとつの死なのだ。次の死のとき、彼女のすべてが死ぬる。したがって出産された子供は、彼女の一部の死においてあらわれたのだ。子供は生命の象徴ではなく、死の、全面的な死の予告ということになる。
一般に、母親は子供にたいして、一度全面的にあきらめる瞬間をもつものだ。彼女は子供がいつまでも自分の腕のなかに柔順にひそんでいると考えている。しかし子供は彼女から去って行く日をかならず待つ。母親はあきらめる。ここでも、母親は死をあきらめることの予行練習をおこなっているのだ。
子供が生まれたとき、母親のこの傾向は父親に移行することがある。ぼくの友人の若い作家は、いわゆる若い新戦後派の旗手のような存在であるが、次のようにその長男の誕生について語った。
ーーー子供が生まれると厳粛な気持ちになるよ、それは過去と未来の人間の鎖の、一つの輪に自分がいまなったと感じることなんだ。どだい、世界にたいして肯定的になるよ。
かれは過去の鎖にたいしては、現在の自分の生を強調して感じることができる。しかし未来の鎖にたいしては、すでに自分の死を見ているのだ。死者はこの世界にたいしてつねに肯定的であるほかない。
さてぼくは、結婚の前日の感情、結婚生活、結婚の反セックス性、妊娠と出産について感想をのべてきたのであるが、つねにぼくの声は死の色彩にかげらされてきた。結婚と死のイメージとはぼくにとってつねに同時にあらわれてきたのである。
しかしそれは、人間の生活をめぐる問題であるかぎり、生のイメージと結婚とがつねに同時にあらわれてきたといいかえても、決してあやまりではないのである。なぜならば、生を意味づけ、また生命を増幅し、生活の一瞬を輝かせるものが死であるからだ。そして結婚とは、生と死の結び目のもっともめだつ重要な場所であり時なのである。
いわば無宗教の平均的日本人が宗教との関係において行動するのは、結婚および死の二つの機会においてである。
結婚と死 「厳粛なる綱渡り」 大江健三郎 より転載
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僕がこの大江の悪文ぷんぷんたる実に読みにくいテキストを最初に読んだのは大学4年の頃だったように思う。つまりいまから40年ほど前、当時21歳であった。手元の書籍は昭和40年6月の第4刷(出版当時は僕は10歳だったことになる)だから当時きっと神田の古本屋で見つけて拾ったものだろう。既にひどく黄ばんだ507ページの大判のエッセイ集が発売当時は600円だから書籍だけ見れば物価はきっと3-4倍にはなっていると思う。当時僕にはつき合っていた彼女がいたが、結局は別れてちがう美女と結婚したのが25歳の時だったから人生はどう転ぶのか誰にも全くわからない。
今月は桜木志乃という主に北海道の道東(釧路、根室、知床など)を舞台にした作家の作品をずっと読んでいる。都合15冊ぐらいは読んだろうが、北海道という北と東の土地と人がどういうものかという事が少しわかって(というか気がついて)勉強になった。辺境という場所が中心とどれほど異なるか、その離れ方によって大きく異なるのは当然だが、その皮膚感覚としての温度差という絶対値によって生き方も決め方も変わる。
僕はすごくミーハーなところがあって、好きな作家の作品に出てくる土地と時間にこだわりがあって、いつか訪れることを夢にみながら本を読み続ける。例えば四国の四万十の山の中とか紀州の海沿いの道だとか青森の日本海沿いの海辺であったりとかだ。
釧路と根室は20代、30代で2度ほど車で夏休みに通過した経験があるだけだが、もう暗い湿った土地だったという以外に印象にない土地である。こんどはもうすこしゆっくりと滞在してみたいと思う。
北は北方領土、南は沖縄と国境線では他国との境界線で辺境ならではの変化と切実な問題を常にかかえている。それも戦争に負けたという時点から厳しい変化がこの地域を襲ったのだろう。男と女が生きて行く途中で、結婚という制度と生活の変化に遭遇する前後では、生と死の結び目がかならず大きく変わる。それを小説に落とし込んだ上手い女流作家が桜木志乃ということなのだろう。ホテルローヤルで直木賞を取ったがどれを読んでみても上手い!と思う。
先週は小学校3-4年の時のクラスの担任の先生にお会いする機会があった。もう88歳で4年前に夫を看取ったという熱海在住22年の先輩である。でもやはり女は強いねとまた感じたから、きっと日本な大丈夫だろうと彼女たちを見ていて思う。