うっすらと富士山が霞んで左に見えますね。
ここが僕の行きつけの肉屋 平井精肉店 伊豆牛が買える唯一の店
大仁という場所にあります。飼料が良いと肉の味は全く変わりますね。
世界に昼と夜とがあり、季節に春と秋があり、方位に南と北とがあり、人間に男と女があるのは堪えがたい。
この国には懐疑主義と詭弁とが茸のように根強くはびこっている。屈辱である。おれはひとりの皇帝として、唯一神たる玉ねぎの司祭として、孔雀神のふたつの乳房を憎まざるを得ない。いま、豹の毛皮と鼈甲の寝椅子に凭れて休らっているおれの耳に、あたかも戦雲を告げるシンバルとシトラスのひびきのように聞こえてくる物音は、奴隷たちの手で破壊されている壮麗な孔雀神殿の壁の崩れ落ちるひびきである。おれは接骨木の髄を耳の孔に詰め、その上に蜜蝋でぴったり蓋をした。すでに忌まわしい音は水オルガンのくぐもり声のようにしか聞こえない。おれの心は平静である。二ヶ月以前、アレクサンドリアの医方博士を七人招いて、秘密裏におれはある種の切開手術を受けた。さよう、おれのからだに女陰を穿ったのである。すでにおれは男にして男ではなく、かつ女にして女でない。男にして女である。すなわち両性である。ああ、存在と所有の完璧な無差別、両性の絶対的一如をあれほど希ったおれの、何というこれは成功であったろう!おれはこの手術を受けて後、王宮内の異端神像を集めた陳列室の中から古い一体のバビロニアの両性神像を見つけ出し、宮廷内の雲斑石の噴水のわきにこれを据えて、日夜飽かず眺めてきた。すると、だんだんおれはこの神像に酷似してきたような気がするから妙ではないか。おれの容貌に色濃くあらわれはじめた古代アッシリア王サルダナバロスさながらの放逸さと気だるさの表情、肉感的な唇のたるみ、拡がった鼻翼、エロスの頭部に似て弦楽器の弦のような重いちぢれ毛にかこまれた狭い額、たえず内部に視線を向けた暗鬱な神秘家の瞳、蒼い血管が葉脈のように這っている艶のない半透明の膚ーーーすべてこれらの徴候は、おれの東法的な血の遺伝に加うるに、十九年の遊惰な頽唐生活の賜物というべきであるとはいえ、おれはそれをバビロニアの両性神像において初めて確実に識って、身ぶるいした。それは美しいというべきであろうか。少なくとも男性美の規範からも女性美の規範からも永遠にはずれるこの美学の形式は、おれを俟って初めて実在の人間に完全に具現されたのではなかろうか。かつてポリュクレイトスの規範は、ギリシアの壮丁のゆるやかな厚みのある胸の上に、若い処女のほっそりした咽喉を接いで得もいえぬ美を実現し、ハドリアヌスの解放奴隷は、エロスとウラニアのトルソオの下にふくらみの目立たぬ少年の腰をもち、癇癖の皇帝を慰撫したが、彼らとて、おれの手に入れた純粋な地上の神のかたちのエッセンス、支配と服従とにこもごも身をゆだねることを得さしめるセックスの神秘の奥義ーーーすなわちセックスを否定するセックス、永遠の愛の火を保つ唯一無二の形式ーーーをおのれの肉身に表現するすべとては、これの望むべくもなかったのではないか。さよう、すでにおれは人間にして人間ではない、玉ねぎの中の神なのである。しからば、玉ねぎとは何か。陽物以外の何ものでもない。陽物はおれの器官であると同時に、おれの熱望である。玉ねぎは強大な陽物である。それはおれの巨大な熱望である。それは愛なくして愛を行うことを得さしめる、絶対に秘跡としての性格をもたない秘跡である。それは神聖な猥褻である。それは至高な原理へのセックスの絶対的隷属であり、セックスそれ自体による至高の原理の創造である。それはまた痙攣する精神であり、戦慄する物質であり、、、、それは、、、ところで、告白してしまおう、おれはこの玉ねぎの内部にある狡猾な仕掛を隠しておいた。幾重にも層をなす純金と象牙と碧玉で構成された材質の中心に、魚の目玉のように小さな一つの空虚をひそかに残しておいたのである。この秘密は事にあたる数人の彫刻師にしか知らされてはいない。小さいながら、この空虚こそ、玉ねぎ全体のもっとも枢要な部分にあたる。かつまた、それはエジプトのガラス器の中の一粒の気泡のごとく、神聖なるものの内部に包蔵された一つの邪悪であり、淫猥なるものの中に封じ籠められたいわば一つの正義である。説明しよう。ーーーやがておれの時代から一千年の歳月が流れ去った後、世界はあたらな文化と新たな神々を迎えるであろう、かかるとき、この時を支配すべき未来の皇帝は、おれの玉ねぎに無残な槌の一撃を加え、これを打ち砕かんと欲するであろう、そして確実に打ち砕くであろう、そこまではよい、だがそのとき、(未来の皇帝よ、思い知るがいい!)台座の下に打ち砕かれ飛散した虹の破片のような玉ねぎの外皮の中心に、何ものによっても破壊される懼れの絶えてない永遠不易の真珠「空虚」が、玲瓏たる虚無の笑いをりんりんとひびかせて、谺のように鉄槌の下から躍り出、きらめきながら大地に跳ね返るのを見るであろう。この虚無の真珠は、何ものを以てしても粉砕され得ないであろう。ーーーおお、この妙案に考えおよんだとき、おれはできうることなら一千年を生き永らえて、このおれの古今未曾有の聡きたくらみの成果をば、われとわがまなこにしっかりと刻みつけたいものと、どんなにか思い焦がれたものであろう。そして、もしさような情景に際会することがおれに肉身に許されるならば、おお、おれはどんなにか涙を流して笑うことでもあろう!『陽物神譚 』 澁澤龍彦より転載=====================================================マダムがドライブに行きたいというので午後から修善寺の先の達磨山高原のレストハウスまで走った。先月からテラスでハーブの苗を植えていて、イタリア料理のスパイス材料を揃えているのだが、パセリ、ルッコラに加えてバジルと水茄子の苗を修善寺のカインズホームというホームセンターで買った。広大な売り場面積によくぞこんなたくさんの商品を並べたねというぐらいいろいろある。農機具、肥料、苗、工具、衣服、身の回りのあらゆる生活用品、食料品となんでも揃う。高級品は一つもないけれど、普通に生きて行くのならこれで十分だろうと思う。21世紀の過剰生産の消費文明の必然的結果がそのまま売り場に存在するという意味では、ふと澁澤龍彦とは全く対照的ではあるなとも思う。面白そうなので洗濯機の水槽を洗う洗剤と漂白剤を買ってみた。どうやら僕は料理と洗濯するのが好きみたいだ。干すのが好き、たたむのも好き。アイロンなしでぴしっと干すのが趣味である。こんな部分はフシギに村上春樹に似ていると思う。きっと大阪のおばさん体質というのが染み付いている年代というのがあるんじゃないか?ブランド好き、元気でケチで楽しい事と美味しいことが好きで仕事嫌い。(爆)僕のフラットはパーキングパレットが5枚あってそれが5つと平置きが4つで29台分あるが、いちばん多いのはレクサスが7台もいる。カインズホームは一番多いのは軽トラ。実用と奢侈の形態の差異がそのまま現れる。日本人の標準的な金持ちはレクサスに乗るというのが事実なのだろう。僕は30年前にいやいやクラウンの4Lに乗って以来、国産車には乗っていないので例外的な方かもしれない。みんなと一緒が嫌いなのね。昨日は郵貯が失効したメインの銀行カードを届けにきた。磁気が飛んで使えないので再発行というのを初めてしたが3週間ほど不便だった。今時、印鑑と通帳で出金するような人はいないだろう。だから他の銀行のカードで引き出した。帰りに平井精肉店で牛肉とチョリソーを買って、となりのユニーの生活倉庫というスーパーで食材を買う。田舎の店はどこも広くて圧倒的だねと思う。東京の数倍あるのは普通だね。伊勢丹2つ分ぐらいの面積だが高級品はまずないね。だから買うものはとても少ない。夕飯はおつまみをいろいろ作る。1 冷やっこ 上手い豆腐を買って、明太子とミョウガのトッピング2 ほうれん草の胡麻和え3 2種類の豆(大納言と白豆)のイタリア風サラダ4 シラタキの明太子和え5 オクラの梅肉和え6 姫キュウリの特製味噌ディップ(味噌、マヨネーズ、ラー油のアレンジ)7 油揚の素焼き8 うずら卵の麺つゆ煮マダムは白ワインと赤ワイン、僕はウーロン茶。これでおなかいっぱいで残した。ちょこちょこ90分ぐらい作りながら食べる、作る、食べるという感じだと調理時間が伸びる。野菜を増やして糖質を抑えるのが今月のポイント。