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Channel: 猫次郎のなんたらかんたら書き放題
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ネットワークの精神的ディアスポラ  2 

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リゾートは実際の土地公示価格にかなり先行して上げていると思う
やはり震災が大底だった。僕は大底で一つ買って3年で売ったが、まだ底だった。
現物の上昇がはっきりしたのは昨年ぐらいからだ。インフレ資産を買えということである。

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僕のマダムは毎年こういうオレゴンから届いた材料でクリスマスリースの作り方を教えている。


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養老先生が「遺言」という新刊を出した。最後に言いたいことは、都市の人口空間がまさに過剰で全都市住民が病気になる一歩手前で社会が狂っているということだ。

定年退職でもして時間ができたら田舎やリゾート地でゆっくりのんびり暮らすのも良いと思うな。贅沢なものは一つもないが、緩く生きてゆくのは身体の負担が少ないよ。田舎にいると大金なんて人生に必要ないなとシミジミ思うなあ。
過密で繋がり過ぎの環境を離脱すると世界が変化すると思うな。


 テクスト、あらゆる「バーチャルな」テクストについても同様だ。これは合成映像のように加工され、もはや視線あるいはエクリチュールの超越生とは何の関係ももたなくなる。いずれにしても、ディスプレイを前にすると、テクストはテクストとしてではなく、イメージとして知覚されうようになる。ところがテクストとディスプレイを、テクストとイメージとを厳格に分離することによって、エクリチュールは相互作用でなくひとつの完全な活動となるのだ。
 同様に、観客がどの役割を完全に果たすためには、舞台と客席とが厳密に分離されていなければならない。ところが今日では、すべてがこの断絶を無化する方向に向かっている。すなわち、スペクタクル内への観客の没入、実演劇場、ハプニングなどだ。
 こうしてスペクタクルは懇親的、相互作用になる。スペクタクルはその絶頂を迎えたのか、あるいは終焉を迎えたのか。全員が役者になってしまったら、もはや行為も舞台もなくなる。それは観客というものの死だ。
 美学的幻想の終焉。

 実のところ、距離を介入させて引き離し、有性化し、超越化させ、昇華させ、変形させるのにあれほど苦労したものすべてが、今日では絶え間なく混同されつづけている。現実性から引き剥がされたあらゆるものが、現在強制的に実現されているのである。そうしたものを奪いとり、実行可能にする技術はつねに見つかることだろう。「あなたは夢見た。われわれは実行した」というわけだ。あれほど苦労して破壊したすべてのものを、今日人びとは夢中になって復元している。実のところ、これは巨大な還元主義、巨大な修正主義なのだ。

 バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。そこは舞台ではなく、距離もなければ批判的あるいは美学的視点もない。これは完全な没入であり、このメディア的領域からやってくる無数の映像は、表象の秩序ではなく、コードの復元と視覚的消費の秩序に属している。それらの映像はわれわれを教化せずに情報を与える。また、それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。
 批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。あたかも裏箔のない鏡の後ろにいるようなものだ。あなたは世界を見るだろうが、世界はあなたを見ず、見つめもしない。だがオブジェのほうであなたを見つめるときにしか、あなたはオブジェを見ることはないのだ。ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ているのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。なんと言う事だろう。彼らは月を見ているのではなく、月を映している画面しか見ていないのだ。彼らはメッセージを見ているのではなく、映像しか見ていないのだ。
 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。
 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。

  ネットワークの精神的ディアスポラ  2    ジャン ボードリヤール  より転載
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 アプリケーションから覗き見る電脳世界の値動きやテクストという幻想によって、我々の売買が遂行されるようになってから久しい時間が過ぎたように思う。今時、電話で証券売買をするような人は実に稀だろう。経費が余分にかかるし、第一不要な情報でコロッと騙される可能性がグンと増す。おれおれ詐欺とは言わんが、近いものがあるんじゃないのかと思うな。数値の交換される日本の証券市場で、いや世界で一番巨大な金額を交換するマーケットをどう信じて良いものやら、疑り深い僕などはよほど安くならないとまず買う気がしない。評価が確定しない新品はまず絶対に買ってはダメだ。みんなやがて全てが値下がりするだから、買うのなら償却の大半が済んで市場で叩かれでこなれた時価のものに限る。その叩かれた不人気にある種の人気がつく時だけ買ったら良いのだ。だからそれ以外はなんでもとりあえずは全部無条件に売りであると思うな。日本以外で生活しない限りは、円という通貨以外はまず必要ないから、僕は円ベースの証券しか売買しないし、きっとあと10年ほどの人生で海外で生活しなければならないような事態は戦争や大規模な災害以外には起こらないだろうとタカを食っている。まあ北鮮が東京に核ミサイルを直接打ち込んできたらあり得るかもしれないが、それでも日本の他の汚染されていない地域をまず探すだろうから、熱海に打ち込まれて即死しない限りまあ海外生活はしないと思う。だから円以外の通貨はいらない。味噌汁と刺身のない暮らしは嫌だな。

 酒田新値という江戸時代の米相場で出来た売買値動きのカウント技法があるのだが、それに新値13本で一相場が終わるという定石がある。つまり10人のうち13人が騙されると相場は反転するという皮肉でシビアーな数値統計であって、逆張りという玉の操作法はいかに人間の多数派が愚かであるかの歴史的な証明かもしれないなと最近は考えるようになった。その13本で終わらずに、最近では40本を超えても反転しないような動きさえあって、一端流れが出来ると人間は騙し続ける、騙され続けるのをきっと快楽と感じてしまうのだろうかとも思う。まさに世は過剰に満ちている。つまりJBの指摘した通り、不足ではなく過剰こそが問題であると思う。

 結局はどう説明してみても、相場の値動きというのは参加者の売買の動向によって決定される物である以上、人間の習性というもの、人間の価格に関する感覚や評価というものからは所詮免れないものなのだろうという宿痾にたどり着く他ないのかもしれない。だとすれば、相場とは一面的には社会学の反映であるとも言える。

 グラフというのは折れ線での月足でも見えすぎる、というか想像の範囲が広がり過ぎるという弊害が一面にはあって、弊害なのか利点なのかは使い方によるのだろう。その点では場帳は広がりが時間的に限定されているので、日常の売買には実に有効であるというか、これ以外には必要ないとさえ言える。

 相場技法でいうところの波乗り(リズムにしろうねりにしろ)というのは、相手の動きにこちらの動きを合わせるという身体的な感覚技法であるから、まず個々の身体こそが基礎であって、その身体とは波の動きを感じ取る五感(あるいは六感)が基本である。この感とは知とは無関係だが、主として末端(足とか手とか指とか)と脳の組み合わせによって感じ取るものだから、安定して数値を受けとめるための道具が間接的に必要になる。流れがあるものだから、音楽と一緒で旋律のように、この音のあとは次の音が時間的に流れるという特徴が動的であり、極点で反転する反復を無限に奏でるという意味で、「差異と反復」によって構成されるわけだ。だから対象も最終的には「切断」するということになる。
 出動する、離脱する、静観するという3つの動作の組み合わせになるのだが、後ろにいくほど難しいと個人的には思う。何もしないで見ていることほど実は難しいと思う。だから相場の極意は何もしないことにあるかもしれない。


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