是非スキレットを買ってみてください。
10倍化けならこういうのはどうか? もう書くのは3回目だけど、、
w底の典型
どんな馬鹿での1000枚ぐらい長いのを書くと「底型とは何か」が体感できる。金が切実に欲しいのなら見ているだけではダメで自分で書いて感じろということだ。
インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。
この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。
これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル サンチェス フェルロシオ が告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。それは注視し、眺めることを可能にするが、注視することなく一度に眺めることを妨げるものだ。かつて事物はそうであった。つまり人はそれを注視せず、眺めることに満足していたのである。今日ではすべてに表裏ができてしまい、純粋かつ直接的な衝動はどこにもない。田舎が、”風景”、すなわちそれ自体の表象になったのもこのようにしてである、、、」。
この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。
鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。
一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。もしかしたらあなたは機械の空間でしかないのかもしれないーーー機械の仮想現実、機械の鏡に映ったオペレーターとなった人間だ。
このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。
機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれるのだが、こうした冗長さは何としても作動しようという機械の狡猾な意思ーーーこれが機械の情熱だーーーと、このように無制限に作動する可能性にオペレーターが魅了されることに原因があるのだ。
暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。プログラミングしか行わない、ヴァーチャルに「知的」な作用因からなる作品としてテクストは、そこからくる。
とはいえこれは、語や概念の魔術的な陥入を用いてできる自動記述とはまったく関係ない。機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
自己の固有の客体との相互作用というめまいと同時に、自分の可能性の技術的限界まで達していないのではないかという不安なめまいをオペレーターのうちに引き起こすのが、そもそもテクストや映像についての理想的なパフォーマンスというこの幻想、この終わりなき修正の可能性なのだ。
実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
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そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。
これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。
もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。麻薬それ自体も、閉じられた回路における狂った相互作用の単なる完璧な例にすぎない。
ネットワークの精神的ディアスポラ 3
ジャン ボードリヤールより転載
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今夜は手抜きをして「焼きカレー」を作った。冷蔵していたビーフカレーのルウーを使って、エンジンという自動車雑誌を定期購読した時にオマケでもらったアメリカ製の厚手のスキレットに、冷やご飯を敷いて、その上に今日は軽く茹でたブロッコリーを4房、そこにルーをかけてその上にピザ用のチーズをたっぷり乗せる。これをケチると美味しくないからこれでもかぐらいに乗せる。そしてオーブンを220度に加熱して12分ほど焼く。すると熱々の焼きカレーができる。
これは焼いた感じとチーズの混ざり具合で、通常のビーフカレーとはまた別物の美味しさがある。それはライスが鉄板でカリカリになるせいだろうと思う。残り物の再利用なのだが、まったく別の料理になるから、料理とはまさに化学だなあと思う。
このスキレットという鋳鉄製の分厚い小さなフライパンのような食器は昔、カウボーイが使用した屋外用の万能調理食器である。実に熱の伝導が素晴らしい。いろいろプロがこの調理器を使用したレシピを考えていたので勉強になった。お国が違うと同じ材料を使用してもまったく異なった風味とか出来映えの料理になるから面白い。
世界が効率を求めてどんどんと分業化されすぎて、いつの間にか人間は自分の手足や感覚を使って、事物を作ったり使ったり楽しんで遊んだりしなくなってきた。「食べて、寝て、出して遊べ」ばそれで人間の生活は完結する。なのに、それ以外の余計なことばかり増えすぎて、人間は不幸になったとフランスで一番賢いレビーストロースという学者が指摘している。構造主義の頭領だが、アマゾンの奥地でフィールドワークをして「悲しき熱帯」を書いている。
反面、日本ではサイコパスの若い女子が「コンビニ人間」を書いている。コンビニは究極の分業形態の極地だから、そこで売っている弁当を食っているとそのうち人間は人間でいられなくなるんじゃないか?僕はそう疑っている。僕の毎日の目的は、コンビニで売っている弁当よりいかに無駄に高価でも旨い弁当を作るか?が楽しい日課になっている。だからコンビニではドーナツしか買わない。
今日は1日かけてまた月足グラフを仕上げた。8089は良い煮詰まりかたをしているように思う。今月から場帳に加えて、多分新年から買い始めるかと思う。
これから咲見町の友人のマンションの大浴場に温泉を借りにいく。車で5分の場所で、当家の温泉よりも温度と塩分濃度が高く、湯量が豊富なので週末の気分転換にはもってこいだ。友人は熱海に二軒マンションを所有しているので、二軒違う温泉に僕はタダで入れて貰えるのがラッキーだ。大きな風呂だが平日の夜はほとんど貸し切りになることが多い。
養老孟司さんの新刊「遺言」をざっと読んでみた。面白いからおすすめだ。人類と日本の子供たちの幸福について書いている。僕がボードリヤールを転載する理由と同じだと思う。