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Channel: 猫次郎のなんたらかんたら書き放題
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知の考古学

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    • こんにちわ。
      >この世界で大金を稼ぐことは天才にも等しいことだ

      以上は全くの誤解だと思います。僕は普通の変人(まあすこし凝り性で、気が向くと徹底して気が済むまでやる=例
      48年グラフを200枚書く、同じ銘柄を5回も書くとか)で、一般的な効率とかは気にしないです。

      していることは安い時に買い、上がれば売る。高い時に売り下がれば買い戻すという当然のことを飽きるまでしただけ。
      感覚はグラフと場帳を書くと誰でもできると思います。
      ただふらつきが無くなるまで金が持つかどうかの差ですね。2年我慢して投げたら3年目か4年目に暴騰なんて経験を数回すれば少しはマシになる。それまで金が続かないだけの事。今なら買い持ちして何年か寝ていれば良い。

      3年(または5年)上げ、7年暴落し、5年底練り。
      景気敏感株は全部一緒。(5401、5410、5541)だから今年から2018-2020は暴騰します。
      それで買い持ちで取る。2020年からは空売りで取る。
      以上で僕の仕事は終わりです。

      まあズレると思ってやってよね。 


猫次郎さん、書き込みありがとうございます。

ひょっとしたらおわかりかもしれませんが、僕は猫塾でおせわになりました。
お恥ずかしい限りですが、今になっても1ミリも進歩していません。場帖はかろうじてつけていましたが、グラフは足の更新もずいぶんとなまけてしまいました。

「せめて泥鰌を捕まえる鴨くらいにはなれるかもしれない。」などとおこがましいことを、結果も出さずに書いてしまいましたが、鴨がどじょう(小金)を咥えても相場師に食われるのがおちだろう、などとほんとは思ったりしています。

しかしこの世界で多少でも稼げるようになるか、なれないかは別として、相場に参加する以上はグラフと場帖は必要です。こつこつ書くしかないと改めて思います。

>感覚はグラフと場帳を書くと誰でもできる

猫次郎さんであるからこその言葉ですが、そこに希望をもってやるしかありませんね。
僕の場合寝食忘れて没頭するくらいの時間が一定期間必要だろうと思います、それでも鴨のままかもしれませんが、シルバー時間をあるだけ費やす、鴨のまま終わっても悔いないようにやろう、と思います。
[ 小鉄 ]2018/3/17(土) 午後 0:03 




    •                                                               書くことが楽しくなるまで続けていく。
                                                     必ずモノになります。がんばって! 
                                                     [ 白猫次郎 ]2018/3/17(土) 午後 4:28 
  • ===============================================================================
  • 月足や折れ線を地味に書いている人をWEB上で見つけると、僕は大抵なにか書き込むことにしている。相場の現在を彼らがどう観察しているのかに興味があるからで、それはわざわざ手間と暇と金を使って、一般的には同じ情報と思われるネット上にもあるグラフを「手書きする人」=個人的な感覚を差異化するということはどういうことかを自分で実行する人、に僕が興味があるからだ。彼らの中から少なからず成功者が生まれると僕は固く信じているからでもある。
  • 昨日思いがけず書き込んだ小鉄さんという人は、以前の僕の生徒さんだったらしい。猫塾が2005年頃だから、もうあれから13年もたったということだ。400名もの生徒がいたのでいちいち記憶にはないし、細かいメールのやり取りをした人や特訓コースの生徒のように面識のある人以外は失礼ながら覚えてはいない。
  • それでも当時と今と僕のしている事やしたら良いと思う事に変わりはないのだから、同じことを毎度クドく書いている。それをまた何度も読んでいる人が、1日500名ぐらいはいるようだ。
  • ここに記録と歴史に関して、20世紀最高の才能と誉れ高いミッシェルフーコーのテキストを揚げて「なぜ人は記録して、歴史を刻むのか?」についての答えとしたい。
  • 僕たちが株価の記録を図表化する(タブローに変える=総合化する)意味について、この世紀の天才の答えを持って僕の納得としたいと思う。総てのセリー(系)が差異化されて行く、僕たちの感覚器=器官なき身体のなかで、ある一筋の平滑空間を滑り始めるために、、、。

 このような交錯が幻影をつくりださないで欲しいものだ。ある歴史的な諸学問が連続的なものから非連息的なものへと移行し、と同時に他の歴史的な諸学問が非連続のひしめき合いから絶え間なく大いなる統一へと向かったなどと、外見に欺かれて、考えないことだ。政治の分析においては、人々は制度や経済による包括的な決定に敏感になったが、観念や知の分析では、差異の働きに次第に強い注意を向けるようになった、などと考えないことだ。繰り返して言うが、記述についてのこの二大形態は、互いに気づかぬままに交叉している、などど思わないことだ。
 事実は、それらは、此処と彼処とに提出された同一の問題であり、ただ、表面に反対の結果を惹き起こしたものなのである。これらの問題は、一言にして次のように要約される。つまりは、「ドキュマン」を問題にすることである、と。誤解しないで欲しい。歴史というような学問が存在して以来、記録(ドキュマン)を役立て、記録に問いかけ、記録に照らして自らを問うことが行われてきたことは、まぎれもない事実ある。記録への問いかけは、記録が語ろうとしたことを知ろうとしてだけではない。果たして記録が真実を語っているか、なにを根拠にそれが真実だと言えるか?記録は誠実なものか、それとも虚偽を伝えるものか?十分調べられたものか、それとも、確かめられていないものか?真正なものか、それとも手の加えられたものか?それらをも明らかにするためである。だが、これらの問いの一つ一つ、および、すべてこの大きな危機的不安は、同一の目標をめざしていた。すなわち、それらの記録の言うーーーときにはほのめかすだけのーーーところから、過去を、記録がそこから発し、今では記録の背後のはるか彼方に消え去ってしまった過去を、再構築することである。記録は常に、今や沈黙へと還元された声をもった言語として扱われてきた。その痕跡はあやふやだが、うまくすると解読可能なものとして。ところで、今にはじまったものではないが、おそらくまだ終わってもいない或る変動によって、歴史は記録に対する位置を変えるようになった。すなわち、歴史が自ら第一の仕事として課するのは、記録を解釈することでも、記録の語る真偽や表現のなんたるかを決定することでもなく、内部から記録に働きかけ、仕上げることなのである。すなわち、歴史は、記録を組織化し、截りとり、区分し、秩序あるものとし、いくつかのレヴェルに分け、系(セリー)をうち立て、十分に適合するものとそうでないものとを区別し、諸要素を見定め、統一性を明確にし、諸連関を記述するものとなる。それゆえ、記録はもはや歴史にとって、惰性的な素材、ーーーそれをとおして歴史が人々の言動や、ただ形跡だけが残っている過去を再構成しようと試みる素材ーーーではない。すなわち、歴史は、記録の織物自身のうちに、さまざまな統一、総体=集合(アンサンブル)、系(セリー)、諸関係などを、明確にとらえようと試みることになる。永い間歴史がそこで満足してきたイメージ、そこに歴史が自己の人間学的正当化を見い出してきたイメージから、歴史をひきはなさなければならない。たとえば、ずっと昔から集団的な記憶となったイメージは、物質的な記録を用いて、その思い出の新鮮さを取り戻そうとした。歴史とは、(書物、テキスト、物語、帳簿、証書、建造物、制度、取り決め、技術、物件、慣習などの)記録的物質性=素材性にかかわる仕事であり、その物質性を作品化することである。そして、この物質性たるや、いつでもどこでも、あらゆる社会において、自然発生的なものであれ人間が組織したものであれ、残存の形を与えるものなのだ。記録は、それ自身としても、正当な権利からいっても、「記憶」でありうるような、歴史の好都合な道具ではない。歴史とは、一つの社会にとって、大量の記録、歴史がそこから離れられない記録、に対して、規約を与え、仕上げる、ある一つの仕方なのである。

  ミッシェル フーコー 『知の考古学』より転載

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