隈健吾氏 設計のすてきなカフェです。
遠景は駿河湾 沼津付近
マルセル モースが『贈与論』を書いたのが、1925年のことであり、先行するプロニウス マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』が発表されたのが、1922年なので、17世紀のホッブスは当然ながら部族社会における贈与習慣についても、全体給付のシステムについても知りません。だから、ホッブスが攻撃し、愛、友情、信頼という観念が、そもそも、教会の慈悲心について教えられるはるか以前に、部族社会における全体最適のシステムのなかから生まれてきた観念であることに考えが及んでいません。
貴重な財産を金庫に保管するようになるのは、それほど昔の話ではなく、はるかな昔から、様々な場所で、財の退蔵を禁止するような奇習が、部族社会にあったことも知らなかったのです。
ところで、グレーバーが指摘しているように、人間生活のすべてを自己利益の追求として説明しうるとする考え方は、人類史的な時間の中ではずいぶんと新しい考え方なのです。
経済学の基本であり、政治学においても広く認知されている「合理的選択理論」、つまり、人間とはあらゆる場面で、最小のコストで、最大の効用を求める利己的な存在であるという考え方も、ずいぶん新しい理論であり、政治の分野でこの理論が強調されたのは1950年代以降、経済分野においては、もっと新しいかもしれません。アダムスミス再評価の流れの中で、出てきた考えかたではないかと思います。スミスは「自己利益によって人間は動く」と書いていましたからね。
しかし、わたしの経験から導かれた結論は、そうしたものとはおよそかけ離れたものだったのです。それは簡単に言えば、こんなことです。
「俺は、案外、俺のために生きているわけではないのかもしれない」
「誰もが、自分を大事と思っている」と、思っているかもしれませんが、このこと自体が、ホッブス以来の資本主義的な社会が生み出した、人類史的に見れば比較的新しい、偏見なのかもしれないと、疑ってみる必要があると思ったのです。
実際問題として、現実の生活の中では、自分のことは二の次にして、親や子供のために身を粉にしている人々をわたしたちは見ているわけです。肉親だけではありません。他者のために、全財産をなげうつような奇特な人間がいるという事例も、たくさん見てきています。
彼らは、なぜそんなことが出来るのでしょうか。
「困ったときは相身互い」だから?
そういう面もあるでしょう。「相互扶助」ですね。
わたしは、ちょっと違う考え方を採用しています。それは、わたしたちの遺伝子の中には、自分だけが生き残ろうとする遺伝子と、自分たちの種を存続させなければならないという遺伝子の両方が存在していて、あるときは利己的になり、あるときは利他的な行動になるが、本人はなぜそんなことをしているのか、本当はよくわからない。別に科学的な根拠があるわけでもないのですが、わたしはそんなふうに考えています。
「21世紀の楕円幻想論 生きるための負債 」 より転載
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お金はあると便利な道具だし、全く無いよりは少しあったほうがきっと快適に生活できる道具だろうなと個人的には思う。金が少しあると大概の物質は買えることが多いし、他人から何か物やサービスを平和的に譲渡してもらうには普通はお金が一番容易な交換手段だと思う。ただし、お金は等価交換という方法が基本にあるから、物やサービスに値段をつけないと成立しない交換方法だ。だから量産品のようにたくさんあるものは値段が付きやすいが、世の中に一つしかないものは稀少なので値段がつきにくい。ついてもすごく高いことが多いようだ。
生きて行くための食料とか水、衣類、住処など生活の基本になる必需品をお金で買ったあとは、(個人差が多少はあるとしても)人は次に何が欲しいのだろうか?欲望とか欲求とかいうものはそんなにどんどんと新しく生まれてくるものなんだろうか?「人は人が欲しがるものを欲しがる」というボードリヤールの象徴交換欲望論のヘンテコな20世紀の人間の習性ではないけれども、実際のところあまり欲しくもない物まで随分と僕たちは持っているのかもしれない。冷蔵庫をあけてみると、食べないで忘れられて腐りそうになった食品が沢山あったり、クローゼットの中には太ってもう着られない服や飽きてしまった服、流行遅れの服が山のようにあったり、本棚にはいつ買ったのか覚えていないようなまだ読んでいない本がたくさんあったりする。それらを買うためにアクセクと面白くもなく糞の役にもたたない会社に行って安月給でつまらない意味の無い無駄な仕事なんかして疲労している人で社会はほぼ埋め尽くされているような気もする。人間って原理的に実は凄く馬鹿なんだろうか?しないで良いことをわざわざして自分で疲れていくような馬鹿の集団がこの資本主義社会の生きる現代人というものなのか?と自分も含めて呆れてしまう。
大体、理性のある大人が毎日なんであんなに混んで不愉快な思いをしてずっと電車に乗って1時間も2時間もかかって通勤するのか?自分で毎朝していることが変だと思えば普通なら辞めるだろうが、日本では数百万、数千万人がそれも毎日正確に同じ苦痛をずっと1年で250回もしている!!こいつら全員が馬鹿か神経が無いのか狂っているかのどちらかかと思えば、そうではなくてみんなじっと我慢してそうしているのだ。実に不思議な光景だなと思う。そういう現象を変だと言えば、言ったほうが「変人」と言われるような社会が日本だということか?変なのはこういう苦痛をずっと我慢している人のほうだろうと僕は思うが、まあスキでしているか他に選択肢がない人がしているかだろうからまあ勝手にやってね、俺は御免だという他ない。
もっと柔軟に働き方、遊び方を変えることは出来ないのか?会社の人員を2分割してAシフトの人は月、火、水出勤、Bシフトの人は木、金、土出勤、で全員週休4日制にすれば総ての通勤電車が5割でガラガラになる。これに時差通勤を加えて、7時スタートと10時スタートにすれば、退社は4時と7時で全員座れてガラガラだ。法令で違反に罰則つければしない訳にはいかなくなる。働き方改革なんてことを言うのならそういう画期的な事をやれよ。ダラダラやっているだけじゃねえかと思うな。時間当たりの生産性は全員が2倍になるだろ?休みが増えれば当然消費も増えるだろ?みんなが金を使えば景気は良くなるし、デフレはなくなるだろうと思うな。そういう改革が必要なんじゃないの?政府や自民や経団連ってマジに馬鹿かよ?誰かもっと凄く頭の良いのを通産大臣にしたら良いのにと思うな。時給を全員2倍にして手取りは同じ。足りないならベーシックインカムで等額を無税で国民全員に給付。財源は赤字国債。どんどん国債をすれば金利が上がって、インフレになる。すると土地と株が上がってキャピタルゲインが増えるからみんなどんどんと貯蓄をやめて投資するようになる。貯蓄から投資に金が流れるから、景気は拡大して税収は増加する。赤字なんてすぐに消えると思うな。
先進国の問題点って実に単純なんだな。 生産>需要 が固定化してしまっている。だから物が余って景気が悪い。 生産<需要 あるいは生産=需要の状態にすれば物価も賃金も上がるし景気も良くなるんだな。生産を減らすには全員遊べば良いだけのことだろ?なんでしないのか不思議だと思うなあ。電通が馬鹿なのよ。鬼10則とかやって会議が26時スタートとか言ってんだから。こういう人殺しを平気でするような会社は法令違反で即、潰したらいいんじゃないの?