つまり6÷250=0.024となる。まあ偏差で2%の安値位置なんだから
買いで分割すれば、目を瞑っても利食いになるのだが、そういう細かいことは
自分で書いていないと、身体が動かない。この動く、動かないが相場師の総ての質と言ってよいだろう。そこからしかスタートは無いのである。こんな事はただ折れ線や場帳を書けば馬鹿でも気がつくが、その馬鹿以下がなんと偏差97%以上とたんまりいるのである。
これを偏差値と言うんだろ?(爆)
国会では「働きかた改革」とか「高度プロ制度」とか、リーマンの労働についての法制度の改正などを論議しているらしい。まあ、昭江ちゃんへの忖度よりは少しは程度がマシだと思うが、この国の国会の立法は何か白けているなあ、ズレているなあと思う。新聞を取らなくなってからおそらく10年以上たつけれど、それはもう新聞を読む意味も価値もないなあと感じてからきっとそれぐらいが過ぎたという事で、新聞を読まないでも困ることが一つもないからだろう。その意味では、僕は雑誌もほとんど読まないから、大半のニューズはネットの見出しで解決してしまう。日常的に必要なのは天気(災害)予報と交通情報(渋滞とか)くらいのもので、情報化社会なんていうけど株価以外に日々切実に必要はものはあまり多くもないねというのが実感だ。それでもたまに気が向いて図書館に行くと、「文学界」とか「今日の料理」とか僕にとれば楽しみな雑誌も少しはあって、「ほう、、なかなか良いね」なんて感動することもたまにはあるから、雑誌も無いよりあったほうが楽しいと思う。
これを偏差値と言うんだろ?(爆)
国会では「働きかた改革」とか「高度プロ制度」とか、リーマンの労働についての法制度の改正などを論議しているらしい。まあ、昭江ちゃんへの忖度よりは少しは程度がマシだと思うが、この国の国会の立法は何か白けているなあ、ズレているなあと思う。新聞を取らなくなってからおそらく10年以上たつけれど、それはもう新聞を読む意味も価値もないなあと感じてからきっとそれぐらいが過ぎたという事で、新聞を読まないでも困ることが一つもないからだろう。その意味では、僕は雑誌もほとんど読まないから、大半のニューズはネットの見出しで解決してしまう。日常的に必要なのは天気(災害)予報と交通情報(渋滞とか)くらいのもので、情報化社会なんていうけど株価以外に日々切実に必要はものはあまり多くもないねというのが実感だ。それでもたまに気が向いて図書館に行くと、「文学界」とか「今日の料理」とか僕にとれば楽しみな雑誌も少しはあって、「ほう、、なかなか良いね」なんて感動することもたまにはあるから、雑誌も無いよりあったほうが楽しいと思う。
インターネットが普及して、その使用法が普遍化していくと「検索」することで手軽に獲られる情報とか知識が日常の生活を変えるし、影響も少なくないと思う。教育の初歩の目的が「読み、書き、そろばん」だとすると、インターネットの活用でその初歩の目的と使用がグンと広がる。何かを探して買うという行為でも、価格と時間と品質という要素を比べて最適化をどうするか、ネットの有る無しで随分と結果に差が出るだろう。若い人ほどそういう部分を既に日常化しているように思う。
書くという事は、脳の高度化に必須の行為だと思うので、特に手書きすることが一番脳の刺激に良いのだという経験的な確信が僕にはある。だから今でもクドいが毎月1200枚も月足を更新したり、120枚も折れ線を週末に書き加えているわけだ。その具体的な効果のどこがどうというのは「やっている人とやった経験のある人」にしか体感できない感覚的な事柄であるから、「わかる奴にはわかるし、大半の馬鹿(多分9割以上)は一生かかっても多分わからん」だろうなと思うから、暇と手間と金がある人は試しにやってみれば良いというような趣旨をもうずっと5年ぐらいここに書いてきたわけだ。9割の馬鹿は何を言っても無意味な鴨だから、どうでも宜しい。残りの1割ぐらいの人は、やった事もきっと意味だけは理解できるんだろうが、それが具体的な金に結びつくまでに随分と時間と苦労と手間と金がまたかかることになる。これは例外無くかかるから(ベトナムさんや僕だって数百万とか数年とか少なくとも必要だったから)避けようがない。
だから途中で脱落する。ほぼ9割ぐらいは脱落するのだ。だから残りは九九=81となって、2%がなんとか成功するという結果がまあ妥当なところなんだろうと思うな。
この2%ぐらいに残ると、自然に体が反応するようになる。場帳と折れ線を書いていたら、数ヶ月とか年に数回チャンとチャンスがきたような感じがして、試し玉がスーっと建つのである。
そうなるまで、損切りだけしているのが相場師のお仕事であると僕は思うな。
相場の仕事を改革するには、まずは量を書く事であると思うよ。