・アパートを借りた
今年に入ってから都心にアパートを借りた。家賃32000円、洗濯は手洗い、給湯器があるのでシャワーを自作した。
自分の自作小屋は、社会の物語とは切れている。だから、小屋という日常生活がそのまま自分一人の脳内である。したがって、自分の中で時間が止まれば生活全体の時間が止まってしまうし、自分が悲しければ生活全体が悲しくなるし、邪魔がない代わりに逃げ場もない、そういう場所である。何かを根詰めて考えたときにリフレッシュすることができるような「日常生活」がない。
では、都会の暮らしはどうかというと、空虚である。小屋で暮らしている時よりもずっと空虚である。確かに多少の逃げ場はあるかもしれないが、逃げれば逃げるほど自分が自分であるという感覚がなくなる。何から逃げるのか。「自分の死」と「他人の悲しみ」である。逃げている限り、何をしていても他人事のようである。心ここにあらず、現実感なく、ぼんやり生きている。つまり、第一に、自分自身であることは苦痛であり、第二に、自分自身でなければ虚ろである。そして、第三の選択肢はわからない。
・バイトを始めた
部屋なんぞ借りてしまったので、仕方がないからいくつか不定期のバイトを始めた。
清掃のバイトは最も自分に合っている。清掃は、無心でできるわりに同一工程の反復のような単純作業でもない。また清掃は、金持ち相手のしょうもない商売ではなく、食糧生産や医療と同様、かなり原始的なレベルで必要とされる仕事である。他に、ストレスしかない仕事もある。会社というのはなんにせよ、営利追求集団である。あの笑顔も、あの情熱も、あの言葉も、全部「ビジネス」が背景にあるのだ。ビジネスマンと付き合うのは虚しく、そして心底疲れる。そもそも自分は「こんな仕事必要ない」から始まるので、仕事も人間関係もうまくいくはずがない。それでも顧客や関わる人々が喜んでくれればと思ったが、自分は人間にモテないし、自分には他人に分け与えられるような熱量はないのだと思い知った。今は何も期待せずにやっている。
・年齢が進んだ
自分には、いわゆる青年期、中年期、あるいは壮年期というものがほとんど無かったようにも思う。少年期が終わるかなと思っていたら、老年期の入り口が見えていた。自分は昔から、周りが妙に大人びて見える傾向にあり、つい最近までは20歳以上の人はみんな自分より年上に見えたものだが、この頃は外見においても内面においても、ああ自分はもう若くないのだと感じることが多くなった。そんなことを思っていたのも束の間、もう若くないどころか、60代くらいの人はみな、僕よりよほど自分の心身に自信を持っているように見える。年齢が進むにつれて自分ができることの可能性が狭まり、若い頃のように「なんでもできる可能性」に惑わされることが少なくなった。これとこれをやってきた、したがって、これとこれをやって生きていくしかない。数論を一から習得して何か定理でも証明できればただ生きるだけではない素敵な人生になるかもしれない、というような馬鹿なことを考えることもなくなった(実はかなり最近まで気が付くとそういうことを考えていた)。老年期とは何かと言えば、そうした衰えや、可能性の狭まりや、虚無感などに抗っていた中年期をこえて、それらと一体化していく過程だろうと思う。
寝太郎さんのブログより転載 http://mainennetaro.blog.fc2.com/
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>他に、ストレスしかない仕事もある。会社というのはなんにせよ、営利追求集団である。あの笑顔も、あの情熱も、あの言葉も、全部「ビジネス」が背景にあるのだ。ビジネスマンと付き合うのは虚しく、そして心底疲れる。そもそも自分は「こんな仕事必要ない」から始まるので、仕事も人間関係もうまくいくはずがない。
巨大なスモモ
甘くて美味しい。
昨日から 寝太郎さんのブログにハマっている。自分の息子より年下の青年が実に老成しているなあ、これはほぼ63歳の僕の年齢の男の心理に相当肉薄しているんじゃないのか?と不思議な気分になる。会社という営利集団のビジネスの意味するものの無意味さ、それから必然的に生まれるストレスフルな生活。こういうバカらしい資本主義生産の決まり事のために貴重な人生を無駄に浪費して良いものかという疑問への身体的な回答が「労働拒否」というお答えというのも、僕やKEYさんに近いものがきっと少なからずあるんだろう。前提として家族持ちか否かというのは結構大きな現実的な差があるから、ある人はまず金を作ってからそれをした、無い人は金などに頼る必然性がない方法を選んだというわずかな順番の差異があったのだろうか?と自問してみる。僕たち老年などは思考が保守的だから、まず家族や周囲の迷惑にならない範囲で実現しようとする半端な社会性があるのだが、青年にはしがらみは無いので一気に直行可能である。つまりそれが小屋生活という事なんだろうと思う。彼はメルセデスなんてきっと乗りたくもないのだと思う。この点がやはり一度は大きく贅沢の限りを尽くしてみるかという老年たちとの欲望的な差異だろう。資本主義の汚染の度合いと言い換えても良いかもしれない。
40歳ぐらいからこの種のグータラ生活(労働をまったくしない生活)に入った僕を外側から見れば、「あいつはたまたま金があったらそういう選択が出来た」という人がいるんだが、単に金があるだけならそういう選択をするのか?と言えば大半の人(きっと99%ぐらいの人)は実はそうはしないのである。更にもっと金を増やそうと働く人がすべてだ。彼らは働いて金を増やす事そのものが好きなのである。この点で僕とは正反対だ。僕はそんなものには全く興味が無い。もう100%無い言える。金があると無責任にその金の範囲内で自由に物や時間が買える。その便利さを使ってグータラ生きることが可能だ。目的はグータラ好きに生きる事=あるいは死ぬ事だから、それ以外の事に時間やエネルギーを当然ながら取られたくない。この取られる事が社会的な搾取だと感じているわけだ。だからサボるのは大好きである。時間を盗むというのは才能だろうと思う。
生まれてから死ぬまで生命がかかさずすることは 1呼吸 2食事と排泄 これに尽きる。つまり生きることは1と2である。それを邪魔するものを排除すること。人生とは、いや生命とは全きそれに尽きると思うな。