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村上春樹に欠けているもの

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 チェスターにはわかっていた。そのとき彼女を不幸な気持ちにさせていたのは、長く住み慣れた住居を離れて馴れない場に移っていくことのつらさばかりではなく、自分のしゃべり方や見かけや、着古したスーツやダイヤモンドの指輪が、まだ相手の敬意を僅かなりとも受けられる場所をあとにすることのつらさだった。ある階級を離れ、ひとつ下の階級へと降りていくことのつらさだった。そして重ねてつらいのは、それが終わりのない移動であることだった。ペラムのどこかで彼女は、フォーミングデールだがなんだかを卒業した隣人に出会うことだろう。ヘイゼルナッツみたいな大きなダイヤモンドの指輪をつけ、穴だらけの手袋をつけている友人にもであうことだろう。
 玄関で彼女はエレベーター係とドアマンに別れを告げた。チェスターはその後について外に出ながら、キャノピーの下で彼女は自分にさよならを言うだろうと思っていた。そこでまた、彼女がどれほど理想的なテナントであったか褒め称えるつもりだった。(中略)

 なぜそれはしくじったのか?なぜそこには報いがなかったのか?なぜブロンコも、ベストウイック家も、ニーガス夫妻も、7Fの離婚女も、ケイティーシェイも、見知らぬ労働者も、何一つ生み出さなかったのだろう?それはベストウイック家とニーガス夫妻とチェスターとブロンコが、お互いを助け合えなかったせいだろうか。あるいは年老いたメイドが、鳥たちに餌を与える役を見知らぬ男にわけ与えてやらなかったせいだろうか。ただそれだけのことなのか?
チェスターはそう尋ね、青い空を見上げた。そこに蒸気で回答が書かれているのではないかというように。しかし空が彼に教えるのは、それは冬の終わりの長い一日だったし、もう時刻も遅いから中に入った方がいいということだけだった。
 
「スーパーインテンダント 」  ジョン チーヴァー  村上春樹訳  より転載  
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 およそ半世紀ほど前,高校の現代国語の時間だったと思うが、担当教師に「行間を読め」というようなことを教わったような記憶がある。「テキストに何が書いてあるのか」というのはきちんと文字が読めて(母語として文法を無意識に無視しても音読できて)、その語彙の基本を読み手が正確に理解できていさえすれば、言葉と言葉の順列組み合わせで文章(テキスト)というものは基本的には成立しているのだから、その組み合わせの方法が誤っていない限り誰にでも理解できる答えに大きな差異は生まれない。一方で「行間を読む」という行為とは、「何が書かれていないのか?」ということを読み手が想像することでまさに書かれていない何かが実際に書かれている何かよりも実は本質的に重大な意味を持っていることがままあるという指摘である。暗喩(メタフアー)というのも現代文学においては実に典型的に重大な意味上のアイコンであり、それが暗示する表面化いまだしていない重大なシグナル全体を象徴する何か?ということになるはずで、優れた美しいプロのテキストには、そんなメタフアーが随所に鏤められているからであり、それを探し出すのも読書の楽しみの一つだろうと僕は思う。
 チーヴァーは1950年代の雑誌ニューヨーカーで当たった短編作家であり、同時代の人としてはアーウィンショー、マーク ショアラー、ポール ホーガン、クリストファアー イシャーウッド、アーサー コーバー、サリイ ベンスン、ビクトリア リンカーンなど多数の人たちがいたが、現在は日本で彼らが読まれることはもうほとんどないだろうと思う。一世代という時間とはそういう篩にかける残酷な質の淘汰であるとも言えようか。古い話で恐縮だが、1982年(今から40年ほど前)、早川書房より「ニューヨーカー短編集」という雑誌ニューヨーカーで書かれた短編作家だけをあつめた500ページ弱の2段組みのハードカバー3冊組が出た。定価1500円。当時の初任給が12万円ぐらいの時代だから現在ならきっと3000-4000円はするのだろうと思う。訳は常磐晋平だった。僕が27歳、結婚した翌年で、長男が誕生した齢だからよく覚えている。当時の短編集を書棚から引っ張り出してぱらぱら読んでみても、やはりジョン チーヴァーの「巨大なラジオ」はちゃんと載っているのだから、上記に訳出している村上の「スーパーインテンダント」と比較しても、わかりやすさ、伝わりやすさという意味では特段の進歩が翻訳にはあったのではないのかと僕は思う。その中でも 暗喩「ヘイゼルナッツみたいな大きなダイヤモンドの指輪」というのが実に面白い。ヘイゼルナッツはきっと300カラットぐらいの大きさがあるはずで、ビクトリア女王の戴冠式に使う王冠のダイヤよりも巨大なダイヤモンドをもった女が、家賃の値上げで住めなくなったアパートを引っ越す一場面を管理人の目からみた一日として描写する都会小説の極意という体裁を取っている。
貧富に揺れる人間心理の狭間を写し取る天才的なテキストとして50年以上も生き残ったということだから、現代作家ではちょうどポール オースターが日本では人気だが、そういうポストモダンな文学が好きな人にはうってつけの短編集なのである。
 中産階級から一段下りる経験というのをどう小説化するかという実験的なテキストなのだが、チーヴァーはエッセイで自分でも書いてるように、ニョーヨーカーの原稿料ではスーツをたった1着しか買えないほど貧しかったそうである。だから階級を一つ降りる人たちの気持ちの描写が実にこのようにリアルなのである。ヘイゼルナッツはおろか胡椒1粒大のダイヤモンドだって1カラットならルースで200万円ぐらいは現在する。それを磨いてプリンセスカットに仕立ててプラチナの台に載せると500万円ぐらいで売っているのが資本主義の奢侈の入り口なんだろうと僕は思う。入り口でウロウロしてその先に進む気にももうならない僕としては、その先に進んでへーゼルナッツのような大きなダイヤをした人々の話を読むほうが老後の楽しみとしては向いている気持ちになるのだな。成功潭と失敗潭の両方があるほうが人生を両面から楽しめる。そういう意味で先日書いているマリオ バルガス リョサはその「行ってこい」の往復潭としてノーベル文学賞を取ったのだろうかとも思える。村上春樹に欠けているものとは多分それなんだろうかと僕は思うな。

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