こんな時代だからこそ、老人は若い人の書いた比較文化論でも読んでみよう。
本書は「希望論」と名付けられている。担当編集者からこのタイトルを提案されたとき、僕は強く反対した。「こんな時代だからあえて希望を」ーーー1978年生まれの僕は、思春期をそんな大合唱の中で過ごし、そしていまも同じ大合唱の中で生きている。
バブル経済崩壊後の「失われた20年」ーー日本社会は「基本的に」下り坂で、誰もが「あの頃はよかった」「こんなはずじゃなかった」と下を向いて生きている。だからこそ言論はつねに「希望」を語ることを要求、いや強要されてきた。そのこと自体は避けれないことかもしれない。しかし、僕はこの大合唱に参加することは、逆に希望を見失うことになるのではないかと、ずっと思っていた。「希望の話をしよう」、と言わざるを得ないこの空気こそが、亡くしたものの数を数えることしか許されない言論空間を維持している。僕にはそう思えてならなかった。だから「希望論」というこのタイトルは、嫌で嫌で仕方なかった。まるで、「君たちは絶望的な世界で生きている」という前提でものをとらえ、考え、生きることを強いられているようだ。そんな気がしてならなかったからだ。
だから僕が本書で問いたいのはただひとつだ。それは、果たして現代のこの世界はそこまで「絶望」的なのだろうか、という問いだ。
こんなことを言うと、たぶん多くの人が眉を顰め、そして反発を覚えるだろう。しかし、僕はこの20年がそもそも「失われた20年」だとは思っていないのだ。もちろん、経済は停滞し、政治は混乱し、目に見えない不安がぼんやりと社会を覆っている。この現実を、僕は否定しない。しかし、単純に考えて僕はあと20年早く生まれていれば良かったとは思えないのだ。
『希望論」前書きより 宇野常寛 より転載
============================================「リトル ピープルの時代」という評論が面白かったので宇野君の評論をすこしまとめて買って読んでいる。彼は1978年生まれだから40歳だ。僕の息子より4歳ほど年長だから、ちょうど僕にとればほぼ子供と同じ世代、次世代ということなる。だから時代に対する感覚は、僕の息子や娘の感覚に近いのだろうと思うので、少し正面からマジに読んでみようと思った。
若い人でも僕のサイトでテキストを読んでいる人もいる。30代、20代は比率は凄く低いのだが(30代は6%、20代は2%だ)、相場の成功者というのは必ずこの8%の中から生まれると思う。そうだ、相場とは若い時に始めたものがほとんど成功すると経験から凄く強く思うのだ。だから上達には相当の時間がかかることが大半だから、早く初めて慣れることが重要であると思う。
日本人の個人所得がピークをつけたのは1996年である。そこから山をずっと下ってきた。貧しくなり、二極化が起きて、一億総中流という神話は崩壊した。だから時代の空気は暗い。だから暗い空気を吹き飛ばすような「希望の話」を聞きたいというニーズが強いのだろう。
宇野君はWEB上の総合誌「PLANETS」の編集長をしている。不思議なことに、戦後最大の哲学者、吉本隆明を読み込んでいる。いまさらオタクのサブカル好きが面白いなあと僕は思った。
>「希望の話をしよう」、と言わざるを得ないこの空気こそが、亡くしたものの数を数えることしか許されない言論空間を維持している。
これは本当だろうか?以前から僕個人は、時代がどんなに悪い状態であっても個人と社会が一致するかどうかは別問題なんじゃないのかと常に思ってきたほうだし、悪い事が多く起るからと言って個人が同様に悪い結果になるとは限らず、少なくとも少ないある集合は、上手にそれを跳ね返し肥やしにして太って行くだろうと常に考える思考のタイプなのである。全体のパイが減れば競争が激化するのは避けられないだろうが、そういう時に勝ち残るのはおそらく異種、異族、例外種ということになるのだろうと思う。樹木的なツリー状の構造ではなく、ステム(茎)状の器官なき身体が生き残る、そう考えるタイプなのだ。だから若い世代の人が、古いタイプの訓練法を取り入れるという事だけで、差異化が始まるのだから、それは実に効果的な方法論になるだろうと思う。
中世が終わって近代資本主義社会に完全に移行するのにおよそ140年を必要としたとアナール派のフェルナンブローデルは指摘する。それは長い17世紀という時代だった。今、後期資本主義が静かに死んで(金利がゼロ、マイナスになって)次の新たな時代がやがて生まれてくるのだろうが、それまではおよそまた140年程度の時間が必要となるだろう。
1996年に終わりの始まりが始まったとすれば、終わりが終わる140年後は2136年頃になる。今このテキストを読んでいる人はきっと誰一人生き残っていないだろう。そうやって時代が大きく変化していくのだろうと思う。だからこそその変化の途中で大きな価格変動が必ず起きることは間違いないと思う。インフレであれ、デフレであれ価格はうねるのだ。だからチャンスは無限大だねと僕は思う。そう、希望の話なんてしないでも上手に泳げばウハウハなのである。ウハウハなんだから、あえて希望の話なんて僕はしないでも良いだろうと常に思うのだ。ウハウハな人は、社会の中でもほんの一つまみしか常にいないのである。というかほんの一つまみのウハウハのために社会が存在すると考えるほうがフーコーの指摘には近いだろう。そうやって戦争や闘争がずっと起きて来たのだろうと思う。それこそが経済と倫理の考古学であると思う。