引退人の真の幸福ってなんだろう?
台風週間
群集心理と反面教師
殺されないためにはスカスカの田舎に逃げよう
田舎のオバさん的暮らし
また夏が終わるね
猫のプチブルボヘミアンライフ 秋の編
起床 午前5時50分
秋のナイトウォーク
終わらない僕の夏休み
労働嫌い
奥の細道 猫次郎編
結婚生活の答えは敬老の日
『困難な結婚』についてインタビューがあった。50代男性のための媒体で、「そういう人たちにアドバイスを」というリクエストだったので、「発想を切り替えないとこの先は生き延びられませんよ」ということを書いた。ちょっと口ぶりがきつ過ぎたかも知れないけれど、インタビューに来た編集者たち(全員女性)は深く頷いていた。
雑誌に書いたものをすこし添削したものをここに掲載しておく。
そもそも結婚は、幸せになるためにしているのではありません。夫婦という最小の社会組織を通じた「リスクヘッジ」であり、安全保障の仕組みなのです。病気になったり失業したり、思いがけない事態になったときに、1人では一気に生活の危機に追い詰められますが、2人なら何とか生き延びられる。お互いがサポートできる。それが結婚の第一の意味です。
かつては、地域社会や血縁集団が確立していて、その中で夫婦という単位が機能していました。普段は不満の多い夫婦でも、夫が親族のややこしい話を丸く収めたり、妻が地域のもめ事で絶妙な差配をしたり、夫婦がチームとして成熟する機会がありました。そうやって、異性愛とは別のレベルに「バディ」としての信頼感が育まれたのです。
今の50代が不幸なのは、地域や血縁システムが崩れ、夫婦単位で行動して、「バディ」の見識や力量を目の当たりにする機会がほとんどなくなってしまったことです。それでも、自営業の夫婦でしたら、「連れ合いがいてくれて助かる」という実感が日々得られるでしょうけれど、勤めに出ていると、配偶者は支援者というよりはむしろしばしば「自己実現の妨害者」として登場してきます。お互いをしみじみ頼りになるパートナーだなと感じることが日常生活のなかではなかなか経験できません。
かつては定年まで働き、満額の退職金をもらうのが当たり前でしたが、今は人件費削減のために、役職定年がどんどん前倒しされています。大手でも大半が55歳で事実上リタイアし、先には昇進もない、責任ある仕事もないというきつい立場に追い込まれています。先行世代のキャリアパスが全く参考にならない雇用環境に投じられている。「不機嫌なおじさん」が激増しているのは、たぶんにそのせいなんでしょう。
でも、それは彼らの属人的な資質ではなく、あくまで制度の問題なんです。この間まで「部長!」とか呼ばれていた人が目下の人間に軽く扱われるようになった男の屈託を配偶者は理解してあげてほしいですね。気の毒な立場なんですから。
夫婦の問題については、愛が足りないとか気配りがないとか、あるべき夫婦に比べてうちは・・・というような「ファンタジー」を語っている余裕はもうありません。今すぐに備えるべきは、75歳以降の老年期の貧困問題です。
おそらく今の50代の相当数は70代にはシビアな貧困問題に直面することになると思います。年金制度は崩壊しているでしょうし、健康保険料も介護保険料もはるか高負担になっているはずです。株を持っていても世界経済の先行きは不透明ですし、銀行に預けても利子はゼロ。人口減少によって、都心を除けば不動産の値崩れは不可避です。
社会の変化の最大のファクターは人口減です。今から15年で人口は1000万人減ると予想されています。鳥取県が年に1つずつ消える勢いでの人口減です。短期間に社会制度が土台から変わってしまう。根本的に変わってしまうんです。それは確かなのに、まだ「成長戦略は」とかいうような世迷い言を口走っている。現役の50代の多くは、「そんなことは知りたくない」とばかりに耳をふさいでしまっています。人口減、それによる市場のシュリンクという平明な統計的事実さえ直視しようとしない。
こう言ってよければ、彼らには不安はあるけれど危機感がない。
右肩上がりの時代に育ち、バブル期に就職し、上に従い、体制に順応することで出世してきたせいで、その成功体験に居着いて、そこから出られない。でも、危機感を持たない人間はリスクヘッジを考えない。そこが問題です。
ヒッチコックの映画『サイコ』に「金で幸福は買えないが、金で不幸は追い払える」というセリフがあります。家庭内で「お金がない」というのは、あれば回避できたトラブルに日常的に悩まされるということです。お金がないことから始まるトラブルの深刻さは家事分担でもめるのとは比較になりません。
ですから、老境の後退戦に備えるのが急務です。一番大事なことは配偶者との相互支援体制を確かなものにすることです。まずは現実認識を共有する。それぞれ職場の雇用状況や業界の今後などについて積極的に情報を開示し、配偶者はそれに耳を傾ける。その上で「何とかせねば」「何ができるか」を考える。お互いの社会的機能を見て、どう分業していくかを考える。
第二に、先行世代を参考にしたキャリアパスからの発想の転換を図ること。例えば、転職ではなく転業の可能性を検討する。都会ではいくら職探しをしても、加齢とともに賃金水準は下がり、それにつれて生活の質も下がらざるを得ない。縮小再生産のスパイラルに入ってしまう。
でも、人手が欲しい地方では、いま自治体がいろいろな移住支援策を実施しています。都会にいても前職とは比較にもならないような待遇の仕事しかないということであれば、いっそ体が動くうちに頭を切り替えて、Iターン、Uターンを選択をするという人はこれから増えてゆくと思います。
超高齢化のせいで、職業上の空白があちこちにできつつある。転業のチャンスは探せばたくさんあります。
生き延びるために一番大切なのは、ネットワークです。都会から帰農した若者たちに聞くと、日々の生活必需品はほとんど物々交換やサービス交換で手に入るそうです。市場経済と直接にはリンクしていないから、不況になろうと株が乱高下しようと、生活の質は急激には変わらない。生活の安定を考えるなら、地域共同体や親族共同体の相互扶助ネットワークをしっかり構築するのはありうる選択肢の一つだと思います。
とにかく性別も年齢も、社会的ポジションも違う人と連携するネットワークを形成すること。メンバーが多様である、ニッチを異にしていること、得意技がそれぞれ違うことは安全保障の基本中の基本です。階層や職業が同質的な人々とだけの集団には危機耐性がありません。
生き延びるために必要なもう1つは、いかに“愉快に、機嫌よく”生き延びるか、です。不機嫌では想像力も知性も働きません。
悲観的にならない、怒らない、恨まない。そういうネガティブな心の動きはすべて判断力を狂わせます。危機的状況下では判断力の正確さが命です。にこにこ機嫌よくしていないと危機は生き延びられません。眉根に皺寄せて、世を呪ったり、人の悪口を言ったりしながら下した決断はすべて間違います。すべて。ほんとにそうなんです。不機嫌なとき、悲しいとき、怒っているときには絶対に重大な決断を下してはいけない。これは先賢のたいせつな教えです。
まずは配偶者との関係を穏やかで健全に保つこと。そのためには、自分が機嫌よくしていることが必須です。「バディ」として選んだその人と、夫婦というチームを成熟させ、安全保障を堅固にする。貧しくても、物心の不如意があっても、とりあえず「何とかなるよ」とにこにこ笑っていられるような、「機嫌のよい夫婦」にしか「夫婦が機嫌よく暮らす未来」は築けないと思います。ご健闘を祈ります。
生き残る人とそれ以外
幸福なブリコラージュ
ユーミンを聴きながら、、、
猫の林住期
知らない間に定年が65歳に上がっている。年金支給を遅らせるためだろうが、企業のほうもそれで採算が合うのだろうか良くわからない。でもどこでも管理職は実質55歳前後で役職定年になるのが大企業では一般的になっているし、55歳で部長だったひとが56歳で平に降格で、以前の部下の下で安月給で仕事をしたり、子会社に飛ばされたりするのは普通な事になっているようだ。都会では鬱屈したおじさんはこうやって大量に自動的に生まれるという事だろう。右肩上がりの成長経済を前提にした社会の仕組みが全部成立しなくなっても、それになんとかすがりつくことを大半の人が希望する。それが惰性社会ということで現代日本の特性の一つだろう。大きく変化することを死ぬほど怖がるから、ギリギリまで何もしないで、ついに臨界に達したらいきなりメルトダウンするというどこかのお馬鹿な国の原発のような仕組みに社会全体がきっと出来てるのかもしれない。その点、今回の天皇の早期引退希望宣言というのは画期的だ。「出来ないことを無理にさせるんじゃねえよ。出来る奴がやれよ。」という事でまことに合理的である。馬鹿正直に真面目腐ってできもしなくなった無能な老人が居座るという醜い構図がオリンピックの醜態になったのだろうが、ああいうのは226事件じゃないが天誅が下るほうが国家のためだろうと思うね。誰でも個人差はあるものの、老人になれば体力も気力も落ちるのが当然だから、今までと同じように生活することは無理である。現在の自分に見合った生活をすれば無理が減って楽なんだが、人間は慣性の法則があるのか若いときと同じようにしようとして失敗するんだろう。子供が育って大人になれば親の養育の役割は終わるのだから、あとはどう静かに死ぬかという具体的な時間まで快適に過ごすかということを正面から考えて実行したら良いと思う。五木寛之の受け売りだが、仏教に林住期という時間概念がある。家族が育って養育の義務を終えた初老から病気で倒れて死ぬまでの10年ほどの時間を都市や都会から離れて自然の中(インドでは林の中)で静かに暮らして死の時間帯をゆっくりと待つという人生の熟成の時間帯という概念だ。実に豊かに自分の生と死を真正面から見つめて捉えてるなあと経済なんてみみっちい事だけに拘る日本人と比較してインド人は偉大だなあと思ったのだ。どうしても島国根性というのは何をやらしてもチマチマとしてみみっちいという貧乏性が目につくなあ。もっと大陸的にドーンと豪快に生きることが何で出来ないのだろう?僕は56歳の時に震災を経験して具体的に自分の死をイメージしたので、それならインド人のマネをやってみようと考えて熱海から車で30分ほどの三菱地所が昔開発した函南という場所の別荘地に広めのフラットを買った。4500区画に1600人が住んでいる老人ばかりのリゾート地で文字通りのいわば姥捨山である。標高が700メートルもあるので、駿河湾と富士山が一望できる豪快な景色の中で鳥や虫の声と四季折々の草木に囲まれた森と林の生活だ。社会と隔絶した温泉湯治の静かな生活で、まったく商業施設がないから、15キロ走らないと貨幣を使う場所がネット以外には存在しないという、東京都中野区のマンション暮らしとは全く異なった環境に猫と二人で入ったことになった。車が無いと不便で買い物も病院も図書館も行けない。マシな外食をするには往復で40キロは走るという都会では考えられない生活で、自炊の比率は95%以上になった。東京では4割ぐらいだったと思うので、食生活は全く変わったと思う。伊勢丹と高島屋が近所にないという生活がこんなにシンプルで質素で金がいらない生活だとういのはやった人しか理解できないだろう。でも人はそれに対応していけるのだ。出来ないならとっくに死んでいるという事である。まず車の運転と感覚に変化が出る。タイアのグリップと操舵感が敏感化している。路面からの感じが脳にダイレクトに伝わって、エンジンの燃焼状態がよくわかる。きっと振動とか音とかが田舎は少ないせいだろう。あと空気が綺麗だから、振動とか波動の伝達にノイズが入りにくいという微妙な差異がきっとあるんだろうと思う。そういう感じの伝わりにくい車に乗れば死ぬということで、よく高速を逆走している人はそういう感覚がもう喪失しまった人たちなんだろう。ターボとかスーパーチャージャーとか過給器のついているエンジンを僕が嫌いな理由はその入力と出力の関連性の不自然さにきっとあるんじゃないかと思うね。人生をじっくりと楽しむというのは凄く贅沢な時間と経験だから、「金」なんて交換価値以外にはほとんど無いものを無限に拡張すれば幸福になるなどいう馬鹿げた幻想を持つことがいかに自分の人生を貧しくしているのかにきっと気がつくんじゃないのかな?目的(生きる事)と手段(労働と金)のはき違えをしている人ばかりが都会にはウヨウヨいるんだねえ。資本主義では生きる事は無関係な事に浪費することで成り立つ幻想の欲望の世界なんだが、田舎にリアルにそんなものは無いのですね。
林住期の暮らしは複数並行的に行こう
山を降りる
マダムのお引っ越し
素敵なシルバーライフ
まもなく女子の首相が日本でも出るだろうなあと思う
義母の住むケアハウスの屋上からの景色は僕の知る熱海で一番素敵だ。特に夕方の海は美しい。ピンクとグレーの無限のグラデーションが息を飲むほどで、およそ20分ほどのパノラマだ.少しだけお金があるとこういう経験が出来るとすると、やはり少しだけ豊なほうが人生は幸福だねと思う。別段大金はいらないから、まめに良い場所を時間をかけて探す事が大事だねと思う。結構こういう施設は出入りがあるらしくて、今週はもと京大教授が新人で入ってきたとの事だ。でもやはり女性の天下の施設だから、8割ぐらいは女性である。男はみんな早く死んでしまって、未亡人が圧倒的に多いのだ。それはこうしたケアハウスだけでなく、僕のフラットも多くは女性である。男で早期に引退して遊んでいるようなのは稀中の稀で40代はゼロ、50代もごくわずかで、男の平均は65以上だろうと思う。僕のフラットの管理人は夫婦だけれども、旦那さんは82歳である。それでも毎日働いているのが元気の元かもしれない。どうせ老いがくるのだから、楽しく充実して老いを楽しむのが良いと思う。そういう事が出来ている才能のある人の本を読めば、自分が出来たら良い事ややったほうが良い事のヒントが満載である。老いは誰でも初めての事なんだから、躊躇する事なく先輩たちの良い部分を真似るのが一番容易で成功すると思う。年刊の「つるとはな」という老人のライフスタイルマガジンは圧倒的である。3冊出ているのでみんな読んでいる。とにかく60歳以上の全員必読の書という感じだ。楽しくて実に良い雑誌である。他に野際陽子(80歳)、桐島洋子(79歳)の本を買った。婆の本だが実に凄い!やはり日本は女で保っているなあと思う。爺の居場所はほとんど無いねえ。(爆)