普段お家ご飯ではマダムが結構立派な鯛飯なんかを作ってくれる。ストーブ40センチのオーバルで4人用でギリですね。4合炊いて4人で食べて、あと1回二人で食べるぐらい出来ますね。
avirexのボマージャケットはずっと前に古着で買いました。ムートンで暖かい!
プリントがエロいからサングラス爺が着ると目立つね。
こちらはドリスバンノッテンのレザーのライダース。
バーニーズで買いました。テーブルと同じぐらいだったかな?イングランドグリーンの
ジャグアーXJSドロップヘッドクーペの緑と同じで、その時オープンで着てました。
「いま、ここ」の消費の物語以外に僕たちには何も無いんですね、残念ですが、、。
例えばマルクスは『資本論』の序文で「経済形態の分析においては、顕微鏡も化学試薬も役にたたない。抽象力が両者にとってかわらねばならない。」と書いています。「抽象力」とは、いわば、思考実験のようなものです。つまり、原遊動民のあり方は、現在の遊動民の調査に基づくとともに、一定の思考実験によってのみ解明されるものです。
すると、大体、つぎのようなことが言えます。原遊動民の社会では、たえず移動するため、物を蓄積できない。ゆえに、余ったものをすべて分けてしまう。客人にもあげる。それに対してお返しを求めない。常に移動している状態では、お返しする機会もないからです。したがって、そこに、贈与とお返しという互酬性(A)はない。それは他者との関係が継続する定住を前提とするものです。
したがって、互酬性の原理は定住以後に始まったシステムであると言えます。つぎの問題は、なぜ人が定住したのか、です。人々は好んで定住したのではない。たとえば、現在の遊動民でも遊牧民でも、定住することを嫌がります。国家が強制しないと、定住しない。それは定住が、それまでなかった多くの問題に直面させるからです。たとえば、定住すると、大勢の他者と共存することになり、そこからさまざまな葛藤が生じます。それだけでなく、定住は、死者との関係を困難にします。遊動状態では、死者を埋葬して立ち去ればよかった。定住すると、死者の霊と共存しなければならない。だから、人々は定住を嫌います。定住するほうが楽だとわかっている場合でも、定住を避ける。
では、なぜ定住したのか。遊動的な狩猟採集生活ができなくなったからです。それはおそらく、前8000年、最終氷河期が終わったころです。氷河が後退し草原となるにつれて、獲物となる動物が減少した。人間は湖岸や海岸に定住して漁撈に従事するようになった。そして、定住すると、簡単な栽培や飼育が自然に始まります。たとえば、飼育といっても、地面に穴を掘ったり、木でフェンスを作って生け捕りにしてきた動物を入れておくだけでいいからです。
日本列島にいた縄文人はどうでしょうか。彼らも定住してきた人たちです。狩猟もしますが、むしろ漁撈に依拠しています。漁撈といっても主として川で、鮭のように産卵のために川を上ってくる魚をとるものです。縄文人は彼らがもったいた土器からそう名付けられたのですが、土器を作ることは定住とは切り離せない。遊動していると、土器など運べないからです。しかし、土器があると、食料の保存が可能になる。つまり、富の蓄積が可能になる。それによって、貧富の差が生じ、権力が発生するようになります。
それを抑制するのが互酬原理です。贈与しなければならない、贈与を受け取らねばならない、贈与に対してお返しをしなければならない。この三原則が強い掟(法)となります。この原理は富や権力の集中を抑えます。
つぎに、定住後に生じるもう一つの問題は、先にいったように、死者との関係です。死者の霊(アニマ)は、生きている者を恨む。だから、それをなだめねばならない。そのために葬礼がなされるのですが、これは死者への贈与です。贈与を受ければ、霊のほうもお返しをしなければならない。このような死者との互酬的関係によって、祖霊、氏神の宗教が生じます。
呪術もまた、贈与の互酬性にもとづいています。原遊動民の時代にもアニミズムがあったし、万物に霊があると信じられていた。しかし、呪術はなかったのです。それは互酬交換がなかったからです。たとえば、供犠とは、霊に贈与、お供えをすることであり、それによって霊にお返しを強いることです。
また、贈与の互酬は、近傍の他部族との関係において、不可欠です。それによって平和を作るのです。婚姻もまた贈与です。つまり、娘や息子を他の氏に贈与することによって、さらに次の代でそのお返しをすることによって、婚姻による紐帯を作ります。だから外婚制の根底には互酬性原理があります。また、それがインセストタブーをもたらす。それは外婚制、つまり、娘や息子を外に贈与するために、内部での性関係を厳重に禁止するものです。原遊動民の段階では、インセストは自然に避けられただけで、特に禁止はなかったといえます。(続く)
「山人と山姥」柄谷行人 講演集成 「思想的地震」より転載
成人男子にとって最も生活全般に影響が大きいのは「妻」の存在であると僕はホトホト思います。26歳で結婚してもう36年ですから、僕のほぼ一生は妻のために有ったと言えます。婚姻は贈与であるという柄谷の言説を信じる僕としては、贈与された女の返礼をすることがある意味では相場をする最大の動機でもあるわけで、婚姻から産まれる子孫(僕は息子と娘とその孫たちと)とその生育について、「差異化」の極限はつまり相場をする事と同義であるとも思います。でも結婚する時に思ったのは、定住する女とは一緒に暮らすのはきっと難しいだろうなという事でした。常に移動するノマドな暮らし、そういうのに慣れた女が良いのです。妻は国家公務員の娘でしたから移動、転勤は頻繁でおよそ同じ場所に3年といることはなかったという育ちかたをしていたのです。だから僕が定住民の子孫でも彼女はノマドピープルでしたから、移動することが喜びでもあったはずです。
こういう偶然とか好運を呼び寄せる素質とか力とか運勢とかが実は努力の何倍も重要な成功要素であるという事実を学校は教えませんね。まあ教えたら諦める人が増え過ぎて、世の中の全体効率が落ちるからなんだろうと邪推するのですが、鈍い人は一生気がつかないまま終わる。同じ場所に定住して生活するとそういう事が見えなくなるのだろうか?とも思います。マグロは回遊しないと大きくならないそうで、同じ場所にいると死んでしまうそうです。人間も同じ要素があるんじゃないかと辺境ラジオの名越康文さんという精神科医の話を聴くとうなずけます。朝8時前後のラッシュの山手線の乗客の8割以上が緊急入院を必要とする精神病患者レベルの死んだ目をしている現実をみると、住宅ローンで長期間定住を強いられたホモサピエンスがしばしば自殺するのは当然であるという診断なんですね。だから頼みもしないのに自分からそういう事をしてしまう人(定住志向の人)はまさに資本主義の餌ですねえ。同じ事をハルトモさんが異なる書き方をしているんだけれど、彼のは個人的な直感的な感じかたなんですね。理論的に言うと僕のような見方に近いんじゃないのかねと思います。僕の周囲の同期でもこいつ有名大学出て、有名企業に入ってもしている事はまるで鴨かどアホというのが9割ですからねえ。考えて無いんですよ全く、社会構造と消費というか支配のルールとかいうことを。
生活というのは昔から、衣食住が基本でこれに遊ぶ、運ぶが追加されたのが現代の生活の代表的なケースです。そのいちいちに物との関わりが生じます。唯物史観で育った左寄りの僕にはあまり形而上学的な物事は後にして、「いま、ここ」の快楽に専念するのですね。後は野となれ山となれ、、ってね。
「山人と山姥」柄谷行人 をしばらく続けて転載します。じっくりと読んでください。東日本の地震から6年が過ぎました。そろそろまた東南海とか関東は注意に時間ですね。