大学院の演習が始まる。後期のお題は「家族論」。ところが初回の発表の渡辺さんは前期に発表できなかったので、後期の第一回に教育論の仕上げとして「寺子屋論」をお願いしていたのを私はすっかり忘れていたのである。(なんでも忘れる人間である。)
まあ、子供の教育について論じるわけであるから、家族論と言えなくもない。
近代日本が世界でも例外的に「子供をかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。
寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。子どもたちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉ではなく、子どもひとりひとりに与えられた課題が違うせいである。手習いなんかしないでそこいらへんを走り回ったり、まわりの子どもの邪魔をしたり、障子を蹴破ったり、上がり框から転げ落ちたりしている子どももいる。もちろんおおかたの子どもはまじめに勉強しているんだけれども。
総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。
理由の一つとして幼児死亡率が高かったことにある。江戸時代の平均余命は男子が20歳、女子が28歳である。これほど低いのは、生まれた子どもの7割が乳児幼児のうちに死んだからである。
だから、元気で遊んでいる子どもというのは、「よくぞここまで育ってくれた」という感情と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。
そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。
もちろん西欧だって幼児死亡率は日本と似たようなものであるから、それだけでは日本人が例外的に子どもを甘やかした理由にはならない。
だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現を聴くことはまれである。
それだけ子どもを取りまく衛生環境が向上したからである。
子どもが「生物学的に生き残ることが当たり前」になると、今度は「どのような付加価値をつけて、子どもを社会に生き残らせるか」ということが親にとって切実な問題になる。
今の日本では、「子どもをどうやって生き残らせるか」という問は「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに置き換えられる。「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれているからである。
繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごく例外的なことである。人類史の99%において、「生き延びる力」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲来や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。
環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友達になれる、、、、そういう能力が「生き延びる」ためには一番有用である。
けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。
だから、現代日本のような極度に安全な社会においては、「生物が生き残るために最優先に開発すべき資質」の開発は顧みられることなく、ごく例外的な歴史的条件下でのみ有意である「金を稼ぐ能力」の開発に教育資源のほとんどが投じられることになったのである。
私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的な安全社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。
つねに死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」にならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会のどちらが子どもにとって幸福かという問いに答えるのに逡巡する親はいないであろう。
でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンを払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。
ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的、生理学的な人間存在にはほとんど触れることがない。
でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人が死ぬ。
社会が安全になったせいで、命の重さについては真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。社会はあまりに安全になりすぎると却って危険になる。
そういうこともあるのかもしれない。
「生きていてくれさえすればいい」というのが、親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを、日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。
「こんな日本でよかったね」 内田 樹 より転載
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KEYさんの娘さんの心が折れたと書いてあった。実に心配である。僕は教師ではないが、良い教師がこういう人だということは良くわかる。そのせいで金が容易に出来たから、、。引用は内田樹さんのエッセイだ。文春文庫で629円。ぜひすぐに買って何度もよく読んでほしい。親の期待と子どもの人生は同じベクトルになるとは限らない。むしろ逆になることが普通だと僕は思う。我が家も僕も教育に失敗したという自覚があるが、長男はおよそ17歳ぐらいから15年ほど続く青年期の危機をなんとか自分とパートナーと自分の子どもの力でかいくぐって生き延びている。子どもは親を必ず見て育つから、心の折れた責任は無論我々の生き方の中に答えの一つがあるんだろうと強く思う。
>「生きていてくれさえすればいい」というのが、親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを、日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
おせっかいを言うと他のことはほどんどどうでも良いんじゃないかと僕は思う。つまらない親の勝手な尺度で子どもを計らないほうが良いと思う。例えば金儲けなんてどうでも宜しい。必要だと思えば元気なら自分でなんとかするもんだ。なけりゃ、好きなだけくれてやれば宜しいと思うな。
今夜は、牛肉とピーマンの中華炒め物
ニンニクと唐辛子を胡麻油で熱して、ピーマンを投入、酢大2、醤油大2で炒めるだけ。
肉(肩ロース200グラム厚切り)は下味を付けて焦げ目が出るぐらいに焼いておく。ヴォリューム満点で御飯がすごくたくさん進むと思う。